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山梨県立富士山世界遺産センター > 世界遺産 富士山―山梨県立富士山世界遺産センター > 信仰の対象・芸術の源泉
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噴火への恐怖、極楽浄土への憧れ、再生への期待―
遥拝、登拝、巡拝。信仰のあり方は時代と共に移り変わってきました。
富士山が噴火災害を繰り返していた最古の記録は8世紀に遡ります。この頃の富士山信仰は、山麓から山頂を仰ぎ見て崇拝する「遙拝」という形態がとられていました。人々は、火の神・浅間大神に鎮火の祈りを奉げるために、山麓の甲斐(山梨県)・駿河(静岡県)両国に浅間神社を創建しました。
噴火が治まると、修験者と呼ばれる宗教者たちは、富士山を神仏がやどる山岳修行の場として捉え、山頂をめざす「登拝」がはじまりました。12世紀には、百回以上も登拝を遂げた末代が、冨士山興法寺(静岡県)を開き、富士修験と呼ばれる集団を興しました。
14世紀以降、庶民のなかにも富士山を信仰する「道者」と呼ばれる信者があらわれ、
極楽浄土への往生を願い登拝を果たすようになりました。彼らの案内や世話をする「御師」も活発に活動しました。
17世紀、富士山を生命の源と唱えた信仰集団・富士講が誕生します。また、山腹や山麓の霊場をめぐる「巡拝」が広まりました。
19世紀には、富士山信仰の神道化が進み、山域の処々に祀られていた仏像の多くが撤去される一方、女人参詣の解禁など多様な信仰の形態が広まりました。
20世紀になると、交通手段の利便性が向上し、国内外から多くの人々が富士山を訪れ、観光など登山の目的も多様化しましたが、現在もなお、様々な想いを抱き富士山を訪れる人々は後を絶ちません。
荘厳な姿、形の富士山は、さまざまな芸術活動の源となってきました。
『万葉集』や、『竹取物語』などの文学。
14世紀以降には、富士山を題材とする絵画が数多く描かれました。
江戸時代の代表的な絵師、葛飾北斎や歌川広重は、富士山を題材とした数多くの美しい浮世絵を生み出しました。
浮世絵に描かれた富士山の図像は、近・現代の西洋美術のモチーフとして多用され、西洋における数多の芸術作品に多大なる影響を与えたのみならず、日本及び日本の文化を象徴する記号として広く海外に定着しました。
彼らが描いた富士山の絵は、海外にも伝わり、その斬新な構図や表現方法は、「ジャポニスム」と呼ばれる、芸術運動を引き起こしました。
19世紀後半、鎖国が解かれると、富士山は「日本の代表的な山」であるばかりでなく、さらに大きな意味合いを帯びて、知られるようになりました。
富士山は、時代を超えて多くの人々に賞賛され、様々な芸術・創作活動に対する意欲を掻き立てることにより、『芸術の源泉』としての性質を持ち続けています。