外観
ライター、パンの研究所「パンラボ」主宰。日本中のパンを食べまくり、パンについて書きまくるブレッドギーク(パンおたく)。編著書に『パン欲』(世界文化社)、『サッカロマイセスセレビシエ』『パンの雑誌』『食パンをもっとおいしくする99の魔法』(ガイドワークス)、『人生で一度は食べたいサンドイッチ』(PHP研究所)など。国産小麦のおいしさを伝える「新麦コレクション」でも活動中。最新刊は『パンラボ&comics 漫画で巡るパンとテロワールな世界』(ガイドワークス)。
宇都宮の市街地から少し離れると自然な風景が現れる。コンクリートに覆われていない川、稲穂が実る田んぼ、大きな空。そして、そこかしこの庭先に現れる石造りの蔵。ベージュにも青ずんでも見えるそれは、宇都宮で採れる大谷石。やがて、そんな蔵の中でもひときわ大きな一軒が現れた。しかもだ。人気のない郊外に、ここだけは入れ代わり立ち代わり訪れるお客さんでにぎわう。石壁の一角に木でしつらえられた窓口が店舗。そこに並んだパンを、お店の人と話しながら、みんな楽しそうに買い求めているのだ。
オープンはたった週2回。その僥倖(ぎょうこう)に遭遇した私は、まだぬくもりの残る焼きたてのパンを買い、石壁の前でほおばった。
ハラペーニョの香りに鼻腔(びこう)をくすぐられた「メキシカンタルティーヌ」(季節商品。現在は終了)。土台のバゲットの硬さを計算し、力強く嚙(か)みついたところ、ぼりっと一気。あまりの軽やかさに、舌を嚙みそうになる。とろりとろけるチーズとからみあうタコミートから、クミンの爽快さとともにあふれまくる肉風味。トマトソースからきゅーんと甘酸っぱさがあふれ、悶絶(もんぜつ)するような快感へ押し上げる。
窓口で接客をしていたのが、店主の平野むつ美さんその人。製造もひとりで行い、小さな店を切り盛りする。ヤマメ=山女。そう店名につけたのは山登りが好きだから。休日には近くの山へ登山に出かける。
そんなとき携行食として持っていくために作った「ヤマメベーコン」。細長い形は、リュックの隙間に差すため。バゲット生地に自家製ベーコンとドライトマトを包んだ。
かりかりと金属的な音を奏でる皮。嚙むほどに心地いい香ばしさが広がる。一転して、中身はふにゃっふにゃ、とろとろとした口溶け。流れでる麦の小川にドライトマトの酸味や、自家製ベーコンの力強い肉味が加わり、旨みが合唱。余韻が響き合うさまは、やまびこのようだ。
このバゲット生地には、北海道産小麦「キタノカオリ」と、中力小麦(うどんなどを作るグルテンの弱い小麦)農林61号(栃木県上三川町・上野長一さん生産)をブレンド。「キタノカオリと中力を合わせるとおいしいよ」とは、平野さんの師匠である宇都宮の名店「パニフィカシオンユー」氏家由二シェフの教えだ。
平野さん、もともとは15年間保育士をしていた。
「保育はおもしろかったし、今でも未練がないといえば噓になります。でも、人生たった1回だと思うと、このまま保育士でいいのかなと疑問が芽生えて。もっといろんな人生をやってみたいと思いました」
Instagramで見かけた一本杉農園(栃木県鹿沼市)の募集に縁を感じて応募。農業をやりながらカフェやベーカリーを営むこの農園でパンを作るようになり、おもしろさに目覚めた。
「家で研究をはじめました。ルヴァンを起こすとか、自分でやってみると、店でやるのとぜんぜんちがって、うまくいかなくて。どうしてこんな気泡、食感になるんだろう? 作ったパンを人に食べてもらうと、おいしいと言ってもらえますし」
パン作りをさらに極めたいと、パニフィカシオンユーでも修業。縁あって、同店のインテリアデザインを手掛け、宇都宮市内で古道具店を営む荒井正則さんの紹介で、この大谷石の蔵に巡り合った。
側溝にかかった鉄の橋も荒井さんの手によるもの。古材を使ったショーケースや窓は、木工作家の渡辺貞継さんの作品だ。アンティークや民藝(みんげい)が好きな平野さんの嗜好(しこう)にもぴたりと合った。
「地域に根差したお店がいちばんいいな」
その土地でできたものを使って、おいしいパンを作る。メキシカンタルティーヌにのせているハラペーニョのピクルスは、近隣の生産者のハラペーニョから自作。蔵の大家さんも農園主。春は大家さんのアスパラをタルティーヌにしたり、夏はとうもろこしでコーンパンを作ったり。こんなものまで、と思うほど自家製の具材が多い。営業日は週2日と少ないが、それ以外の日は仕込みにあてている。
「料理をすることが苦にならないんですよ。おいしいもの、旬のもの、生産者がわかるものを。そう思ってついつい作っちゃいますね。とにかく食べるのが好きだから、自分で作って食べてみたいと思っちゃうんですよね」
「ずんだミルクスティック」(季節商品。現在は終了)のずんだクリームも自家製。枝豆をゆでるところからクリームを作るパン屋さんを私は見たことがない。むぎゅむぎゅとした食感の生地を嚙み締めればやがて小麦のミルキーさがとろけ、ミルククリームと溶け合う。湧きだすずんだの香り。豆類特有の青い香りをこんなにいきいきと感じるのは、手作りだからこそ。
「『またあそこのパン買いにいこう』って、時間あるときにふっと行ったりする存在になれたらいいな。誰かの頭の片隅にいつもいられるようなパン屋になりたいです」
少なくとも、私の頭の片隅には強烈にインプットされた。今度はいつ宇都宮に行けるだろう?
ヤマメパン店
宇都宮市岩曽町493
11:00〜売り切れ終了(土曜は12:00〜)
水曜土曜営業
https://www.instagram.com/yamame.pan/
※(注記)アクセスは過去7日間で集計しています。