神奈川の台所(「東京の台所」番外編)

「なんの試練かと思うことも」。台所は自分の心のモノサシ〈5〉

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2025年09月10日

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映画『ローズ家〜崖っぷちの夫婦〜』特別試写会へご招待 豪華ゲストによるトークイベントも

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3月に開催した「東京の台所2」筆者、大平一枝さんのオンラインイベントで、多くの方から「東京以外の台所も見たい」という声をいただきました。今回は以前から取材希望が多かった「神奈川の台所」を、番外編として5回にわたってお届けします。

〈住人プロフィール〉
45歳(女性・パート勤務)
分譲マンション・3LDK・田園都市線 鷺沼駅・川崎市
入居15年・築年数30年・夫(会社員・46歳)、長男(21歳)、長女(17歳)との4人暮らし

「ときどき、この連載を読めないことがあります」
彼女は、率直に語った。
長男は不登校を経て高卒認定を取得、大学生に。現在高校生の長女は、過剰服薬や自傷行為が何度かあり、精神科受診を決めたところだという。

「私が23歳で若く結婚したからだろうか、自分の子育てが間違っていたのではないか......。なにかあるたびに自分を責め、絶望感におおわれそうになります。でも、私の心が折れたら、取り返しのつかないことになる。だから日々の生活を、なんとか平常心で過ごせるよう心がけるようになりました」

すっきりシンプルな台所が好きなので、器も鍋も必要最低限しかない。たとえば無水鍋を、炊飯から煮炊きまで兼用し、台拭きは無印良品の不織布と決め、それ以外は買わない。
かつて整理収納アドバイザーをしていたこともあり、引き出しの隅々まで、片付いていた。それが自分にとって心地良いからやっている。

食材は、毎日食べる分だけ買い、使い切る。作り置きは「先々の献立を考えるのが負担なので」しない。その日食べたいものや家族のリクエストがあれば、適宜優先する。

今は、自分に無理がかからないことを大事にしている。収納の仕事はコロナ禍による縮小で、週に数回、スーパーのレジカウンターで短時間のパート勤務に切り替えた。
料理も、どうしても作る気持ちになれないときは、「今日はコンビニ祭りだよ」と、台所に立たない。

そうわりきれるまでに、6年かかった。
はじまりは長男の高校入学までさかのぼる。2日目から行かなくなった。

二人三脚

「なんで?をずっと繰り返していました。理由がわからない。入学を祝福してくれた両親にもなかなか言えなかった。公的機関や心療内科、いろんなところに行きました。知り合いから"コミュニケーションが苦手なんですね"と言われても、見る限り息子は違うなと。友達もいて、基本的には人と触れ合うのが好き。でも、どんどん昼夜逆転していき、生活が乱れていきました」

当時いちばんこたえたのは、夫が息子の状態をなかなか受け入れられなかったことである。
「高校に通わないとこの先真っ暗、人生が終わる、という考え方で、私とは温度差がありました。夫は会社員なので、息子が人生の真っ当なレールから外れてしまうことへの心配が、どうしても先に立ってしまったのだと思います」

夫婦で行ったある病院では、「たんなる怠け者です。反抗期ですね」と言われた。医師の机上は紙が散乱していた。
本能的に、「こんな人に診断してほしくない」と思ってしまった。
近所の小さな精神科、県内の大きな専門医療機関を経て、彼女が調べた"不登校の親の会"に、夫に行ってもらった。
そこで初めて夫は、「世の中には多様な人がいて、なかにはどうしても学校に行けない子もいる」と知った。

以来、少しずつ夫婦の足並みが揃(そろ)っていく。
「彼も会社の人に、うちの子がこうなんだと相談したり、子どもたちとの夕食にいられるかどうかまめに連絡を取り合うようになったり、徐々に変わっていきました」

彼女自身は、不登校1カ月目の早い段階で腹をくくったと述懐する。
「誰よりも先に、親友に話したんです。昼夜のリズムが乱れていく息子を見て、私自身も、作ったり食べたり片付けたりという、大好きな生活のことができなくなっていた。自分がダメになるのが嫌なんだと話すと、親友が泣いたのです。私も泣いていないのに。それを見て、ああ私は辛(つら)かったんだなと、改めて気づいた気がします」

真剣に傾聴してもらうことでほぐれるもの、客観的に見えてくることがあった。──自分がダメになってはいけない。
だったら、学校に通わせようとがんばるのではなく、行かないという意志を、受け入れるほうに舵(かじ)を切ろうと覚悟が決まった。

息子は部屋に引きこもるわけではなく、家族で食事もすれば、みなで外食もする。できるだけ淡々と平常心で、が彼女の信条になった。
そのうち相性の良い個人塾の先生と出会い、通い出した。プログラミングが好きで、小説も書く。将来の夢も話すなかで大学に通いたい意志も伝わってきた。

今、大学3年になった長男は、「あのときは、通うことから逃げていた」と語った。
オーストラリアへの留学も経験し、現在は就活を見据え、インターンに通っている。いっぽう、大学院進学も迷っているらしい。
「迷う時間も必要、と思います。以前の私なら、すぐにはそう思えなかったでしょうけれど」

冷静に語る彼女だが、そこには試行錯誤と葛藤の長い時間が横たわり、今も終わってはいない。
2年前の夏、高校生の娘が突然「ギャルになりたい」と言ってピアスを10個開けた。
「ファッションの域を超えているとわかりました。それから咳(せき)止め薬の過剰摂取をときどきするようになったのです」

母のストライキ

しばらく5時間目登校が続いた。
「これはなんの試練だろうと思うこともありますし、やっぱり、私のせいかなと責める癖は抜けません。でも、私だけのせいにしたら、私が潰れてしまうから──」
息子の経験が土台にあるので、潰れそうになる前に親友に話したり、夫と協力し合ったりしてなんとか過ごしてきた。
娘の気持ちを尊重し、登校も強制しない。
2年目の今はまた、朝から通い始めている。
ただ、ふっと気が緩んだときに、過剰服薬はある。

「薬をのんでしまった日は、ボーッとしているんですね。そのあどけない顔を見たら泣けてきて。"あんた、これ飲んだの"と問い詰めると、"やめたいとは思っている"と苦しそうだった。ああ本当にやめたいんだとわかりました」

家族で夕食を囲み、おしゃべりも多い。あるとき、それが辛くなった。娘がときどき「夕食はいらない」という。それでも作ってしまう。

「作ってあげたいというのは親のこだわりで、こっちの勝手なんですね。でも食べないものだから腹が立つ。家族それぞれ時間帯が違うことも、食べたり食べなかったりのことも多い。そんなとき、酔った夫とくだらないことで口喧嘩(げんか)をしてひと月間、家事を放棄したことがあったのです。母業・妻業のストライキですね」

好きな時間にひとりで作って、ひとりで食べる。

ところが、全然楽しくも、おいしくもなかった。
「自分は、家族の料理を作るのが好きなんだと再確認しました。掃除して住まいを整え、ご飯を作って、みなで食べて、片付けるのが楽しい。それ以来、"なんとなく作る""張り切らない"という方向に、自分が変わっていきました」

急にいらないと言われてもいいように、張り切りすぎない。好みの違う長男と長女のために、がんばって献立を合わせすぎない。自分がおいしいと思うものを作る。気力のないときはコンビニ食でもOK。

まだまだ気の抜けない日々が続いている。だが4人揃(そろ)った日に寿司(すし)屋やラーメン屋に行くと子どもたちは楽しそうなので、救われる自分もいる。
「まー問題は解決してないけど、とりあえず今日は楽しいからまあいいかって」

読むのが辛い日もあるこの連載に、なぜ応募してくれたのかと尋ねた。
「私の経験なんて、いるかいらないかでいえば、いらない経験だったかもしれません。でも主人もがんばったし、お気に入りの台所でご飯を作る日々が、私を支えている。家族のリクエストに応えたり、スルーしたりしながら、今日もみんなの帰宅時間に合わせてごはんを作っている。前途多難、3歩進んで2歩下がるの日々を聞いていただきたくなりました」

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tai-chan
2025年9月10日 12:11 PM

今楽しみに見ている、スクールロイヤーさんが主人公のドラマ。みんなに同じ事を求める学校が嫌いで、でも校門とかで耳を引っ張ってスイッチを入れる。頭の良い生徒さんは、すぐに弁護士としては「へっぽこ」だと見抜くが、彼が、人の話を聞き、生徒の内心の自由を尊重するため最善を尽くす人だと感じ、友達や分かってくれる大人の力を借りて、本人が前に進んでいくお話。その時その時に、最善を尽くしていけば、光を見つかるはず。すっきり美しい台所を公開していただき多謝です。

kopatora
2025年9月22日 10:09 AM

「今日はコンビニ祭りだよ」になんだかとっても嬉しくなりました。「今日は冷凍食品祭りだよ」とか「スーパーの総菜祭りだよ」とか言いたいなと思いました。

タリア
2025年10月2日 5:34 PM

白を基調として、ウッド色、さし色からなるカラーリング。そしてディテールに至るまで全てが使いやすく整えられている。。。ご家族それぞれが苦しさを経験されながらも、この穏やかで秩序ある空間を拠り所に前に向かわれているのだと思います。心より応援しております。

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tai-chan
2025年9月10日 12:11 PM

今楽しみに見ている、スクールロイヤーさんが主人公のドラマ。みんなに同じ事を求める学校が嫌いで、でも校門とかで耳を引っ張ってスイッチを入れる。頭の良い生徒さんは、すぐに弁護士としては「へっぽこ」だと見抜くが、彼が、人の話を聞き、生徒の内心の自由を尊重するため最善を尽くす人だと感じ、友達や分かってくれる大人の力を借りて、本人が前に進んでいくお話。その時その時に、最善を尽くしていけば、光を見つかるはず。すっきり美しい台所を公開していただき多謝です。

kopatora
2025年9月22日 10:09 AM

「今日はコンビニ祭りだよ」になんだかとっても嬉しくなりました。「今日は冷凍食品祭りだよ」とか「スーパーの総菜祭りだよ」とか言いたいなと思いました。

タリア
2025年10月2日 5:34 PM

白を基調として、ウッド色、さし色からなるカラーリング。そしてディテールに至るまで全てが使いやすく整えられている。。。ご家族それぞれが苦しさを経験されながらも、この穏やかで秩序ある空間を拠り所に前に向かわれているのだと思います。心より応援しております。

Yumko
2025年10月8日 9:54 PM

住人の方のお人柄が、文章からとても伝わってきました。家族への愛情の強さと、それを守ろうと頑張る姿が読みながら伝わってきて、なんだか心が打たれました。いいご家族ですね。私も家族を守るためにここまで頑張れるかなぁと思いました。かっこいいです。子供は基本的に美しい種のような存在で、親だけの力では、育てられないところがまた歯痒いと感じます。個性あふれるお子様たちの未来が明るいものになることを心から願っています。

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