鬼ヶ谷才治
鬼ヶ谷 才治
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右からの1人目の前頭の時の鬼ヶ谷 1896年頃、大砲万右エ門(左から3人目)の横綱土俵入りでの鬼ヶ谷(一番右) | |
基礎情報 | |
四股名 | 鬼ヶ谷 雪藏→鬼ヶ谷 才治 |
本名 | 鈴木 才治 |
生年月日 | 1855年 4月19日 |
没年月日 | (1931年02月02日) 1931年 2月2日(75歳没) |
出身 |
伊予国 宇摩郡 (現:愛媛県 四国中央市) |
身長 | 163cm |
体重 | 80kg |
BMI | 30.11 |
所属部屋 |
時津風部屋(大坂相撲) →雷部屋(東京相撲) |
得意技 | 突っ張り、引き、捻り |
成績 | |
現在の番付 | 引退 |
最高位 | 小結 |
幕内戦歴 | 105勝119敗28分12預146休 |
データ | |
初土俵 | 1886年1月場所 |
入幕 | 1887年1月場所 |
引退 | 1907年1月場所 |
備考 | |
2015年8月29日現在 |
鬼ヶ谷 才治(おにがたに さいじ、1855年 4月19日(安政2年3月3日) - 1931年(昭和6年)2月2日)は、 伊予国 宇摩郡(現:愛媛県 四国中央市)出身の元大相撲 力士。本名は鈴木 才治(すずき さいじ)。
経歴
[編集 ]1855年 4月19日(旧暦3月3日)に伊予国 宇摩郡(現:愛媛県 四国中央市)で生まれた。当初は時津風部屋(大坂相撲)に入門し、本場所に登場するまでの巡業では愛媛潟と名乗った。1886年に梅ヶ谷藤太郎 (初代)から勧誘されて東京相撲に加入することが決まると、東京相撲では雷部屋に所属し、同年1月場所に二段目(現:幕下)格付出で東京相撲の初土俵を踏んだ。1887年1月場所で新入幕を果たすと、際立った好成績を残すことは無かったが地道な努力を重ね、1891年5月場所で小結昇進、この場所を5勝3敗1分で勝ち越して翌場所も小結を務めた[1] 。その後は平幕を長く務め、1904年1月場所では6勝2預2休の好成績を挙げ、優勝同点に相当する成績[2] を残した。
1907年1月場所を最後に現役を引退したが、この時既に51歳となっており、新入幕から20年もの長きに渡って幕内の座を守り続けたことから、その功労と驚異的な持久力を称えて協会から特別表彰を受け、銀杯を授与された。引退直後の同年5月場所千秋楽には相撲記者団体「振角会」からの表彰も受けた。
引退後は年寄・田子ノ浦を襲名し、初代・2代両方の梅ヶ谷の良き相談役を務めるなど、様々な面で雷部屋を支えた。1931年 2月2日に死去、75歳没。
人物
[編集 ]鋭い出足を生かした突っ張りが得意で、時に引き落とし・蹴手繰りも見せたほか、例え組んだとしても投げ、捻りが強かった。
梅ヶ谷藤太郎(2代)が雷部屋に入門して以降、英才教育を受けさせたのは鬼ヶ谷だった。徹底的に相撲の基本を指導し、幕下昇進後は早くも師匠と共に横綱土俵入りの指導まで行ない、1903年5月場所後に横綱昇進が決定すると、鬼ヶ谷は土俵入りで露払いを務めた。
「鬼ヶ谷」という四股名ゆえ、彼の世話になった者は節分などでは「鬼は外」とは言えなかったそうである(梅ヶ谷藤太郎 (2代)の項を参照)。
主な成績
[編集 ]- 幕内在位:41場所
- 幕内通算成績:105勝119敗28分12預146休 勝率.469
四股名
[編集 ]- 鬼ヶ谷雪藏(1886年1月 - 1888年1月)
- 鬼ヶ谷才治(1888年5月 - 1907年1月)[3]
脚注
[編集 ]- ^ 横浜新報著作部 編『当世力士銘々伝』鬼ヶ谷才治,横浜新報社,明36.2. 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ この場所で優勝相当成績を挙げたのは常陸山谷右エ門(7勝1敗2休)、梅ヶ谷藤太郎_(2代)(7勝1敗1預1休)の両横綱で、いずれも1敗している。
- ^ 鬼ヶ谷才治[1]