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高島覚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
高島 覚
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 岩手県 一関市
生年月日 (1965年01月07日) 1965年 1月7日(60歳)
身長
体重
180 cm
72 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1987年 ドラフト外
初出場 1988年6月11日
最終出場 1991年9月23日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
この表について
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しかくプロジェクト:野球選手  しかくテンプレート

高嶋 聰(たかしま さとる、1965年 1月7日 - )は、岩手県 一関市 [1] 出身の元プロ野球選手(投手)。

来歴・人物

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一関商工高では、1981年の2年次にエースとして夏の県大会決勝に進む[1] が、小田英明のいた盛岡工業高に敗退。その後も県大会で敗れ甲子園には出場できなかった。

高校卒業後は、社会人野球新日本製鐵釜石に入社。

1984年都市対抗野球からエースとして出場、先発するが1回戦で本田技研鈴鹿に敗れる。

1985年都市対抗野球でも、1回戦で先発したがこの大会に優勝した日本生命佐藤清らに連続本塁打を喫し敗退。

1986年の都市対抗野球ヨークベニマルの補強選手として救援で1回を投げた[2]

1987年オフ、ドラフト外中日ドラゴンズに入団[1]

1988年から一軍に上がる。

1989年には初先発を果たすが、敗戦投手でこの年唯一の一軍登板となった。

1990年6月、杉本正と共に、山内和宏との交換トレード福岡ダイエーホークスに移籍[1] 。同年は7月から先発陣の一角として起用され、初勝利も記録する。

1991年も主に中継ぎとして活躍するが、1992年には登板機会がなく、同年限りで現役を引退[1] 。スリークォーターから、スライダー、カーブ、フォークを武器とした。

引退後は球団に残り、打撃投手スコアラーを経てファーム担当スタッフ[3]

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1988 中日 4 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 19 4.1 5 0 2 0 0 2 0 0 1 1 2.08 1.62
1989 1 1 0 0 0 0 1 0 -- .000 13 3.0 3 2 0 0 1 2 0 0 3 3 9.00 1.00
1990 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 19 3.1 5 1 4 0 0 2 0 0 4 4 10.80 2.70
ダイエー 21 7 0 0 0 1 3 0 -- .250 313 73.2 62 9 39 0 3 50 4 1 35 31 3.79 1.37
'90計 22 7 0 0 0 1 3 0 -- .250 332 77.0 67 10 43 0 3 52 4 1 39 35 4.09 1.43
1991 18 0 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 142 31.2 36 4 17 0 1 19 3 0 22 21 5.97 1.67
通算:4年 45 8 0 0 0 2 4 0 -- .333 506 116.0 111 16 62 0 5 75 7 1 65 60 4.66 1.49

記録

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背番号

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  • 46 (1988年 - 1990年途中)
  • 15 (1990年途中 - 1991年)
  • 48 (1992年)
  • 111 (1993年 - 1995年)

脚注

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  1. ^ a b c d e プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、315ページ
  2. ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  3. ^ 【筑後のおじ鷹】高島覚さんは各部門を裏側から支えるスペシャリスト「守備範囲は広いですけど...」 Sponichi Annex 2024年7月2日

関連項目

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外部リンク

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