関屋悌蔵
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関屋 悌蔵(關屋 悌藏、せきや ていぞう、1896年(明治29年)3月2日[1] [注釈 1] - 1978年(昭和53年)9月6日)は、南満州鉄道社員、満州国官僚。
経歴
[編集 ]長野県で関屋生三の五男として生まれる[1] 。東京府立一中、第一高等学校を経て[3] 、1921年に東京帝国大学 法学部独法科を卒業[2] 。南満州鉄道に入社し、経理部・社長室で勤務[1] 。1927年から欧米に留学し、帰国後は計画部勤務、遼陽地方事務所長、安東地方事務所長、奉天地方事務所長などを務めた[1] 。1937年に満州国に入り、新京特別市副市長、1941年から満州国駐華大使館参事官を経て[2] 、1943年6月19日に満州国国務院民生部次長に就任[1] [4] 。組織改編に伴い、1945年3月12日から満州国崩壊まで同国務院厚生部次長を務めた[4] 。
1959年6月の第5回参議院議員通常選挙に全国区から自由民主党公認で立候補したが落選した[5] 。
1978年9月6日、急性心不全のため東京都 港区の吉川橋病院にて死去。82歳。告別式は同月8日、カトリック田園都市教会で行われた[6] 。
その他
[編集 ]親族
[編集 ]出典:[2]
脚注
[編集 ]注釈
[編集 ]出典
[編集 ]参考文献
[編集 ]- 帝国秘密探偵社 編『大衆人事録 第14版 外地・満支・海外篇』帝国秘密探偵社、1943年。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1230025 。
- 人事興信所 編『人事興信録 第14版 上』人事興信所、1943年。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1704391 。
- 戦前期官僚制研究会 編『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』秦郁彦、1981年。
- 東京府立第一中学校 編『東京府立第一中学校五十年史』1929年、巻末「如蘭会員及現在生徒名簿」頁。
- 日外アソシエーツ『国政選挙総覧:1947-2016』2017年。
官職 | ||
---|---|---|
先代 初代 |
満洲国の旗 厚生部次長 1945年 |
次代 なし |
先代 源田松三 |
満洲国の旗 民生部次長 1943年 - 1945年 |
次代 末代 |