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長尾当長

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(2019年1月)
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  • 長尾 当長
  • 長尾 當長
 
長尾 当長 / 長尾 景長
長尾当長像(双林寺蔵)
時代 戦国時代
生誕 大永7年(1527年)
死没 永禄12年7月15日(1569年 8月27日)
改名 當長(当長)、禅昌[要出典 ]、景長、禅昌(入道名)
別名 新五郎
戒名 心通禅空大居士
官位 但馬守
幕府 室町幕府 上野 守護代
主君 上杉憲政北条氏康
氏族 長尾氏
父母 父:長尾憲長、母:横瀬景繁
兄弟 当長渋川義勝正室、長尾憲景
正室:赤井照康(赤井照景姉)
政長?、長尾顕長正室、広田直繁正室
婿養子:顕長 (由良成繁子)
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長尾 当長[注 1] (ながお まさなが)は、戦国時代武将足利長尾氏当主。永禄4年(1561年)12月以降、景長と名乗った[1]

通称は新五郎[2] 官職但馬守 [2]

略歴

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大永7年(1527年)、長尾憲長の二男として誕生[3]

父・長尾憲長の跡を受け家督を継ぐ。はじめ、関東管領上杉憲當(憲政) [注 2] から偏諱を受け當長(当長)と名乗った[1] 。関東管領家の家宰として活躍して[要出典 ]足利藤氏元服の際、但馬守となった[1] 。だが、憲当が、後北条氏に圧迫されるように関東から撤退すると、関東管領家家宰職も事実上消滅し、当長も北条氏康に降る。

永禄3年(1560年)にいったん出家して「禅昌」と名乗るが、同年11月には再び還俗して「當長(当長)」に名を戻す。[要出典 ]

同4年(1561年)3月、上杉憲政が家督や関東管領職等を長尾景虎(上杉謙信)に譲ると、景虎より偏諱を受けて、祖父・長尾景長と同じく「景長」を名乗ったと推測される[1] 。やがて上杉政虎と改名した景虎が関東出兵に乗り出すと、同じ長尾氏としてこれを支援する。

永禄5年(1562年)2月、上杉(謙信)勢が赤井氏館林城を落とすと、同月末、景長(当長)はこの城を預けられた[4] 。また、赤井氏の支配領域であった上野国 邑楽郡は、景長と小泉城城主・富岡重朝に二分された[5] 。赤井氏の配下にあった土豪も長尾氏に吸収された[5]

政虎が後北条氏を圧迫し、後に越相同盟まで結ぶようになると、上杉・北条両家の軍事的・外交的な折衝に当たった[要出典 ]

永禄12年(1569年)7月15日、死去[6] [7] 。43歳[1] 。法名は心通禅空大居士[2] [1] 。心通院(足利市)に宝篋印塔がある[8] [6]

景長の死後は婿養子・顕長が跡を継いだ[7] 館林城は同じく婿であった広田直繁に与えられたようである。また、男子に北条氏政から偏諱を受けたとされる長尾政長(読みは当長と同じ[要出典 ])がいたとされるが、顕長が跡を継いでいることから早世したものと考えられる。

脚注

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注釈

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  1. ^ 旧字体:長尾當長。
  2. ^ 新字体:憲当。

出典

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参考文献

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  • 足利市史編さん委員会 編『近代足利市史』 第一巻 通史編《原始〜近代(二)》、足利市、1977年3月1日。NDLJP:9641197 (要登録)

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