角屋七郎兵衛
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角屋 七郎兵衛 栄吉(かどや しちろうべえ[1] /しちろべえ[2] えいきち)、慶長15年3月17日(1610年 5月10日) - 陽徳元年 / 寛文12年1月19日(1672年 2月17日)[1] は、江戸時代初期の貿易家。本姓は松本、名は栄吉[1] 。
生涯
[編集 ]伊勢国 飯高郡 松阪・湊町の廻船問屋、第2代角屋七郎次郎忠栄の次男として生まれた[2] [3] 。朱印船貿易に携わる貿易家となった七郎兵衛は、寛永8年(1631年)、安南(現在のベトナム)に渡った。だが、その2年後に鎖国令が出たため、七郎兵衛は二度と日本に戻ることはなく、生涯を安南で過ごすこととなった[2] 。鎖国下にあっても伊勢への家族や親類には書状で連絡を取り、伊勢神宮や松阪城下の寺社へも寄進し続けたという。また、安南中部の町・会安(ホイアン)にあった日本人街の長も務めた[2] 。死後の1928年(昭和3年)には従五位を贈位された[4] 。 七郎兵衛とその一族の慰霊碑は現在も三重県 松阪市白粉町の来迎寺に残されており、松阪市の市指定文化財にもなっている[2] 。
逸話
[編集 ]登場作品
[編集 ]参考文献
[編集 ]- 徴古館農業館(編)『贈位先賢遺品目録並講演要領』徴古館農業館、1929年(昭和4年)7月20日
脚注
[編集 ][脚注の使い方]
注釈
[編集 ]- ^ ただし石灰分の多いホイアンの水で作るカオラウは非常にコシの強い麺であり、伊勢うどんとは大きく異なる。