コンテンツにスキップ
Wikipedia

藤本捨助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この記事には参考文献外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です 適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2020年5月)
この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています ご存知の方は加筆をお願いします。(2020年5月)
藤本捨助
生年月日 1894年12月12日
出生地 香川県 大川郡 引田町
没年月日 (1963年09月11日) 1963年 9月11日(68歳没)
死没地 香川県 高松市
出身校 東北帝国大学 法学部
前職 高松高等商業学校教授
所属政党 (中立倶楽部→)
(翼賛政治体制協議会推薦→)
(改進党→)
(日本民主党→)
(自由民主党)
称号 正四位
勲二等旭日重光章
親族 藤本孝雄(子)
テンプレートを表示

藤本 捨助(ふじもと すてすけ、1894年明治27年〉12月12日 - 1963年昭和38年〉9月11日)は、日本の政治家教育者衆議院議員を5期つとめた。

経歴

[編集 ]

1894年(明治27年)12月香川県 大川郡 引田町(現東かがわ市)生まれ。1917年(大正6年)香川師範学校卒業、1922年(大正11年)東京高等師範学校卒業、1928年(昭和3年)東北帝国大学 法学部卒業後、高松高等商業学校教授。

1936年(昭和11年)に第19回衆議院議員総選挙に立候補するが落選。1937年(昭和12年)第20回衆議院議員総選挙で香川1区から初当選、1942年(昭和17年)に第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)で再選を果たす(翼賛政治体制協議会推薦)。1945年(昭和20年)5月には鈴木貫太郎内閣 農商 参与官に就任。

1946年(昭和21年)、他の翼賛選挙推薦議員同様公職追放 [1] 1951年(昭和26年)追放解除[2] 。戦後は改進党から衆議院に立候補したが、1952年第25回衆議院議員総選挙・1953年第26回衆議院議員総選挙と落選が続き、改進党が日本民主党に合同した1955年 第27回衆議院議員総選挙で国政復帰。保守合同後は自由民主党に所属し、1958年第28回衆議院議員総選挙、1960年(昭和35年)第29回衆議院議員総選挙でいずれも当選。1963年(昭和38年)1月には第3代全国療術師協会会長に就任している。

衆議院議員在職中の1963年9月11日、高松市の自宅で死去した[3] 。68歳没。同月13日、特旨を以て位二級を追陞され、死没日付で正五位勲四等から正四位勲二等に叙され、旭日重光章を追贈された[4] 追悼演説は同年10月15日、衆議院本会議で成田知巳により行われた[3]

家族

[編集 ]

脚注

[編集 ]
  1. ^ 『朝日新聞』1946年2月10日一面。
  2. ^ 『朝日新聞』1951年8月7日朝刊二面。
  3. ^ a b 第44回国会 衆議院 本会議 第1号 昭和38年10月15日 | テキスト表示 | 国会会議録検索システム
  4. ^ 『官報』第11026号5・6頁 昭和38年9月16日

参考文献

[編集 ]
  • 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』(衆議院、1990年11月)
議会
先代
佐々木秀世
日本の旗 衆議院社会労働委員長
1957年
次代
森山欽司
定数3
第23回
第24回
第25回
第26回
第27回
第28回
第29回
第30回
第31回
第32回
第33回
第34回
第35回
第36回
第37回
第38回
第39回
第40回

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /