藤原喜蔵
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藤原喜蔵 ふじわら きぞう | |
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生年月日 | 1888年 1月2日 |
出生地 |
日本の旗 日本 岩手県 胆沢郡 水沢町 (現・岩手県奥州市) |
没年月日 | (1956年04月29日) 1956年 4月29日(68歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法科大学独法科卒業 |
前職 | 平安南道内務部長 |
所属政党 | 自由党 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1954年 4月29日 - 1955年 12月16日 |
在任期間 | 1950年 6月18日 - 1954年3月31日 |
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藤原 喜蔵(ふじわら きぞう、1888年〈明治21年〉1月2日 [1] - 1956年〈昭和31年〉4月29日 [2] )は、朝鮮総督府 官僚。岩手県 水沢市長。
経歴
[編集 ]岩手県 胆沢郡 水沢町(現・奥州市)生まれ[3] 。1914年(大正3年)に東京帝国大学 法科大学独法科を卒業した[4] 。青森県属、同警視、同東津軽郡長、同理事官を経て、1919年(大正8年)に朝鮮総督府に転じた[5] 。咸鏡南道警察部長、平安南道警察部長、京畿道警察部長、朝鮮総督府官房秘書課長、平安南道内務部長、同知事を歴任した[5] 。その間、1927年(昭和2年)にはジュネーブ海軍軍縮会議に随員として参加した[5] 。
1935年(昭和10年)に退官した後は朝鮮洋紙株式会社社長、北鮮製紙化学工業専務取締役などを務めた[5] 。
1950年(昭和25年)6月18日から1954年(昭和29年)3月31日まで水沢町長を務めた[6] 。
1954年水沢市長選挙
[編集 ]同年、水沢市が発足した[7] 。これに伴う市長選挙に自由党公認で立候補して、2人を破って初当選を果たした[7] 。
※(注記)当日有権者数:23,148人 最終投票率:84.1%(前回比:-pts)
候補者名 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 | 得票率 | 推薦・支持 |
---|---|---|---|---|---|---|
藤原喜蔵 | 66 | 自由党 | 新 | 9,617票 | 50.9% | - |
菱谷敏男 | 48 | 無所属 | 新 | 6,538票 | 34.6% | - |
佐藤博 | 31 | 無所属 | 新 | 2,732票 | 14.5% | - |
4月29日に市長に就任した[4] 。
著書
[編集 ]- 『朝鮮の回顧』(近沢書店、1945年) - 和田八千穂との共著
脚注
[編集 ]- ^ 『輓近大日本拓殖史』日本行政学会、1934年、p.477。
- ^ 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年〜平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年、1084頁。
- ^ 『水沢市史 4 (近代 1) 175コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b c 『日本の歴代市長 : 市制施行百年の歩み 第1巻 131コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b c d 人事興信録 1941.
- ^ 『水沢市史 4 (近代 1) 148コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b 『水沢市史 5 (近代 2) 85コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
参考文献
[編集 ]- 人事興信所編『人事興信録 第13版(下)』人事興信所、1941年。
- 『日本の歴代市長 第1巻』歴代知事編纂会、1983年。