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董文用

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董 文用(とう ぶんよう、1224年 - 1297年)は、13世紀半ばにモンゴル帝国に仕えた漢人将軍の一人。字は彦材。

概要

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生い立ち

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董文用が10歳の時に父の董俊が戦死してしまったため、董文用は長兄の董文炳の庇護の下で育てられた。董文用は幼いころから学問に親しみ、若くして詩賦の才を発揮していた。1250年(庚戌)に董氏一族の仕える[1] ソルコクタニ・ベキは自らの領地の中から優秀な子弟を選んで仕えさせるよう命を下しており、この時選ばれた董文用はソルコクタニに仕えてカラコルムに住まうようになった。なお、同時期に史天沢の長男の史格も同様の理由でモンゴル高原に派遣されている[2]

その後、トルイとソルコクタニの長男のモンケが第4代皇帝となり、その弟のクビライが東アジア方面遠征軍の司令官に抜擢されると、董文用はクビライに文書官として仕えるようになった[3] [4]

帝位継承戦争

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1253年(癸丑)よりクビライは雲南・大理遠征を始め、董文用もまた弟の董文忠とともにこれに従軍し、主に兵站の維持に従事した。1257年(丁巳)・1259年(己未)には南宋遠征軍が再編成されてクビライ軍は長江中流域に侵攻することになり、董文用は縁辺のモンゴル・漢人諸軍の徴発を担当した。同年9月、クビライが長江の渡河を始めるに当たって董文炳は先鋒を申し出、弟の董文用らもこれに同調したため、クビライは自ら董文用に甲冑を下賜し、一族は南宋軍を大いに破ったという[5] 。しかし同年中にはモンケ・カアンが急死したことにより弟のクビライとアリクブケの間で帝位を巡る内戦(帝位継承戦争)が勃発することになった。

1260年(庚申)、自派の者だけを集めて即位を宣言したクビライは「中統」という新たな元号を制定し、董文用は支配下の地域への宣諭を担当して各地を回った。同年7月にクビライの下に戻った董文用は張文謙の推薦もあり左右司郎中の地位についた。1261年(中統2年)8月には参議都元帥府事の地位につき、1262年(中統3年)には山東半島の済南で叛乱を起こした李璮の討伐軍に参加している。その後、元帥のアジュが南宋侵攻の司令官として抜擢された時、アジュは董文用を召して配下に加えようとした。しかし、董文用は「諸侯で総兵の地位にある者は、その子弟は兵事についてはならないという新たな制度があります。今、兄の董文炳が経略使総重兵に任じられて山東地方に鎮撫しており、私が従うことはできません」と述べて断ったという[6] [7]

クビライ治下の文官として

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帝位継承戦争中、クンドゥカイが荒らしまわった旧西夏国領(西夏中興等路)は住民が離散しており、董文用は「至元」と改元された1264年に西夏中興等路行省郎中の地位を与えられた。現地に赴任した董文用は流民の帰還に務め、また帰還した民には種子や農具を分け与えて生活を安定させたという[8] [9] 。元来、旧西夏国領はオゴデイコデン家の勢力圏であり、この頃はコデンの孫のジビク・テムルが君主であったが、無軌道な暮らしぶりによりコデン家の財政は破綻しかかっていた。そこで董文用が法に基づいてこれを改善しようとしたが、従来の在り方を否定する董文用に不満を持つ者たちがジビク・テムルに言し、董文用はジビク・テムルに召し出されることになった。ジビク・テムルの下を訪れた董文用は自らが天子(クビライ)の命を受けた官吏であり、審問を行うのならば同じく天子の命を受けた王傅にさせよと申し出た。これを受け容れたジビク・テムルが王傅に董文用の審問をさせると、董文用は王の配下たちの不法な振る舞いを理路整然と糾弾したため、その言を認めた王傅はジビク・テムルに董文用の正しさを報告した。そこでジビク・テムルは改めて董文用に謝罪し、ジビク・テムルの理解を得た董文用は1265年までにこの地方の復興を成功させた[6] [10]

1271年(至元8年)に司農司が設立されると、董文用も山東東西道巡行勧農使の地位を授けられた[11] 。山東地方は李璮の叛乱以来田野が荒廃していたが、董文用のはたらきにより5年の内に天下の勧農使の中で最も成果を挙げたと評されるほど農業生産を向上させた。1275年(至元12年)、丞相のアントンの推挙によって董文用は紇石里に代わって工部侍郎とされた。しかし紇石里は当時権勢を極めていたアフマドの与党であり、アフマドの恨みを買った董文用は工部侍郎の鷹を餓死させたという罪を捏造され、これを信じたクビライによって左遷されてしまった[12]

左遷後

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1276年(至元13年)には衛輝路総管とされたが、この地は連年の徴兵によって民の10分の9が兵事に携わり、民力が低下していた。更にこの頃南宋の首都の臨安が陥落したことによって連日南末の財物を運ぶ護送隊が通り、住民の農業を遮っていた。そこで董文用が護送隊の者に護送兵を減らし民への負担を減らすよう申し出ると、相手は董文用の正しさを認めた上で、それでも万が一問題が起こった時には誰が責任をとるのかと問いただしたため、董文用は自らの名前と官名を記しそれを保障とした。このような董文用の配慮により衛輝路は復興に向かったという[13]

中央への復帰

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1282年(至元19年)、董文用は兵部尚書に抜擢されて再び中央へ呼び戻され、以後朝廷の大議で関わらないものはなかったという。1283年(至元20年)に江淮省より行台(御史台の出先機関)を行省(中書省の出先機関)に属させるよう進言があった時には、董文用の反対により却下とされている[14] 。その後礼部尚書に転じたが、この頃朝廷では中書右丞の盧世栄が権勢を得ており、盧世栄の政策を痛烈に批判したと記録されている[15]

1285年(至元22年)には江淮行中書省参知政事に任命されたが辞退しようとした所、クビライより直々にこれまでの業績を評価されて慰留されたため、董文用はこの任官を受け容れた[16]

1288年(至元25年)には御史中丞となり、胡祗遹・王惲・雷膺・荊幼紀・許楫・孔従道ら10名余りを按察使に、徐琰・魏初らを行台中丞に推挙した。また、この頃はサンガが台頭していた時代であったが、アフマドや盧世栄の時と同様董文用は権勢におもねることなくこれを批判したと伝えられている[17] [18]

1294年(至元31年)、晩年のクビライは董文用に諸子を伴って入見するよう命じたが、董文用は辞退したため遂にクビライに見えることなかった。その後、クビライの後を継いだテムルに引き続き仕えた[19]

晩年

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1297年(大徳元年)に董文用は老齢を理由に官を辞し、同年6月に74歳にして亡くなった[18] 。董士貞・董士亨・董士楷・董士英・董士昌・董士恒・董士廉・董士方という8人の息子がいたという[20] 。董文用の息子たちについては記録が少ないが、三男の董士楷については著名な儒学者の陳孚の娘を娶ったことが知られている[21] [22]

脚注

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  1. ^ モンゴル帝国では征服した土地を征服に功績のあった者に分け与える慣習があり、董氏一族の住まうはチンギス・カンの末子のトルイの領地=投下領とされていた。トルイは若くして亡くなったため、この頃はトルイの寡婦のソルコクタニがトルイ家の投下領の差配をしていた。
  2. ^ 松田2013,6頁
  3. ^ 牧野2012,354頁
  4. ^ 『元史』巻148列伝35董文用伝,「文用字彦材、俊之第三子也。生十歳、父死、長兄文炳教諸弟有法。文用学問早成、弱冠試詞賦中選。時以真定藁城奉荘聖太后湯沐、庚戌、太后命択邑中子弟来上、文用始従文炳謁太后于和林城。世祖在潜藩、命文用主文書、講説帳中、常見許重」
  5. ^ 『元史』巻148列伝35董文用伝,「癸丑、世祖受命憲宗自河西征雲南大理。文用与弟文忠従軍、督糧械、賛軍務。丁巳、世祖令授皇子経、是為北平王・雲南王也。又命召遺老竇黙・姚枢・李俊民・李冶・魏璠於四方。己未、伐宋、文用発沿辺蒙古・漢人諸軍、理軍需。将攻鄂州、宋賈似道・呂文徳将兵来拒、水陸軍容甚盛。九月、世祖臨江閲戦、文炳求先進戦、文用与文忠固請偕行、世祖親料甲冑、択大艦授之、大破宋師」
  6. ^ a b 藤島1986,18頁
  7. ^ 『元史』巻148列伝35董文用伝,「世祖即位、建元中統。文用持詔宣諭辺郡、且択諸軍充侍衛、七月還朝。中書左丞張文謙宣撫大名等路、奏文用為左右司郎中。二年八月、以兵部郎中参議都元帥府事。三年、李璮叛拠済南、従元帥闊闊帯統兵誅之、山東平。阿朮奉詔伐宋、召文用為其属、文用辞曰『新制、諸侯総兵者、其子弟勿復任兵事。今吾兄文炳、以経略使総重兵鎮山東、我不当行』。阿朮曰『潜邸旧臣、不得引此為説』。文用謝病不行」
  8. ^ 宮2018,331頁
  9. ^ 『元史』巻148列伝35董文用伝,「至元改元、召為西夏中興等路行省郎中。中興自渾都海之乱、民間相恐動、竄匿山谷。文用至、鎮之以静、乃為書置通衢諭之、民乃安。始開唐来・漢延・秦家等渠、墾中興・西涼・甘・粛・瓜・沙等州之土為水田若干、於是民之帰者戸四五万、悉授田種、頒農具、更造舟置黄河中、受諸部落及潰叛之来降者」
  10. ^ 『元史』巻148列伝35董文用伝,「時諸王只必鉄木児鎮西方、其下縦横、需索無算、省臣不能支、文用坐幕府、輒面折以法。其徒積忿、譖文用於王、王怒、召文用、使左右雑問之、意叵測。文用曰『我天子命吏、非汝等所当問、請得与天子所遣為王傅者辨之』。王即遣其傅訊文用。其傅中朝旧臣、不肯順王意。文用謂之曰『我漢人、生死不足計。所恨者、仁慈寛厚如王、以重戚鎮遠方、而其下毒虐百姓、凌暴官府、傷王威名、於事体不便』。因歴指其不法者数十事、其傅驚起、去白王、王即召文用謝之曰『非郎中、我殆不知。郎中持此心事朝廷、宜勿怠』。自是譖不行而省府事頗立。二年、入奏経略事宜還、以上旨行之、中興遂定」
  11. ^ 宮2018,359頁
  12. ^ 『元史』巻148列伝35董文用伝,「八年、立司農司、授山東東西道巡行勧農使。山東自更叛乱、野多曠土、文用巡行勧励、無間幽僻。入登州境、見其墾闢有方、以郡守移剌某為能、作詩表異之。於是列郡咸勧、地利畢興、五年之間、政績為天下勧農使之最。十二年、丞相安童奏文用為工部侍郎、代紇石里。紇石里、阿合馬私人也。其徒既讒間安童罷相、即使鷹監奏曰『自紇石里去、工部侍郎不給鷹食、鷹且痩死』。帝怒、促召治之、因急捕文用入見、帝望見曰『董文用乃為爾治鷹食者耶』。置不問、別令取給有司」
  13. ^ 『元史』巻148列伝35董文用伝,「十三年、出文用為衛輝路総管、佩金虎符。郡当衝要、民為兵者十之九、餘皆単弱貧病、不堪力役。会初得江南、図籍・金玉・財帛之運、日夜不絶于道、警衛輸輓、日役数千夫。文用憂之曰『吾民弊矣、而又重妨耕作、殆不可』。乃従転運主者言『州県吏卒、足以備用、不必重煩吾民也』。主者曰『汝言誠然、万一有不虞、則罪将誰帰』。文用即手書具官姓名保任之。民得以時耕、而運事亦不廃。諸郡運江淮粟于京師、衛当運十五万石、文用曰『民籍可役者無幾、且江淮風水、舟不能以時至、而先為期会、是未運而民已困矣』。乃集旁郡通議、立駅置法、民力以舒。十四年、詣汴漕司言事。適漕司議通沁水北東合流御河以便漕者、文用曰『衛為郡、地最下、大雨時行、沁水輒溢出百十里間。雨更甚、水不得達于河、即浸淫及衛、今又引之使来、豈惟無衛、将無大名・長蘆矣』。会朝廷遣使相地形、上言『衛州城中浮屠最高者、纔与沁水平、勢不可開也』。事遂寝。十六年、受代帰田里、茅茨数椽、僅避風雨、読書賦詩、怡然燕居。裕宗在東宮、数為台臣言『董文用勲旧忠良、何以不見用』。十八年、台臣奏起文用為山北遼東道提刑按察使、不赴」
  14. ^ 『元史』巻148列伝35董文用伝,「十九年、朝廷選用旧臣、召文用為兵部尚書。自是朝廷有大議、未嘗不与聞。二十年、江淮省臣有欲専肆而忌廉察官、建議行台隷行省、状上、集朝臣議之。文用議曰『不可。御史台、譬之臥虎、雖未噬人、人猶畏其為虎也。今虚名僅存、紀綱猶不振、一旦摧抑之、則風采薾然、無可復望者矣。昔阿合馬用事時、商賈賤役、皆行賄入官、及事敗、欲尽去其人、廷議以為不可、使阿合馬售私恩、而朝廷驟斂怨也。乃使按察司劾去其不可者、然後吏有所憚、民有所赴訴。則是按察司者、国家当飭励之、不可摧抑也』。悉従文用議」
  15. ^ 『元史』巻148列伝35董文用伝,「転礼部尚書、遷翰林・集賢二院学士、知秘書監。時中書右丞盧世栄、以貨利得幸権要為貴官、陰結貪刻之党、以錙銖掊克為功、乃建議曰『我立法治財、視常歳当倍増、而民不擾也』。詔下会議、人無敢言者。文用陽問曰『此銭取於右丞之家耶。将取之於民耶。取於右丞之家、則不敢知。若取諸民、則有説矣。牧羊者、歳嘗両剪其毛、今牧人日剪其毛而献之、則主者固悦其得毛之多矣、然而羊無以避寒熱、即死且尽、毛又可得哉民財亦有限、取之以時、猶懼其傷残也。今尽刻剥無遺、猶有百姓乎』。世栄不能対。丞相安童謂坐中曰『董尚書真不虚食俸禄者』。議者出、皆謝文用曰『君以一言、折聚斂之臣、而厚邦本、真仁人之言哉』。世栄竟以是得罪」
  16. ^ 『元史』巻148列伝35董文用伝,「二十二年、拝江淮行中書省参知政事、文用力辞。帝曰『卿家世非他人比。朕所以任卿者、不在銭穀細務也、卿当察其大者、事有不便、但言之』。文用遂行。行省長官者、素貴多傲、同列莫敢仰視、跪起稟白、如小吏事上官。文用至、則坐堂上、侃侃与論是非可否、無所遷就、雖数忤之、不顧也。有以帝命建仏塔於宋故宮者、有司奉行甚急、天大雨雪、入山伐木、死者数百人、猶欲併建大寺。文用謂其人曰『非時役民、民不堪矣、少徐之如何』。長官者曰『参政奈何格上命耶』。文用曰『非敢格上命、今日之困民力而失民心者、豈上意耶』。其人意沮、遂稍寛其期。二十三年、朝廷将用兵海東、徴斂益急、有司大為奸利。文用請入奏事、大略言『疲国家可宝之民力、取僻陋無用之小邦』。列其條目甚悉。言上、事遂罷」
  17. ^ 『元史』巻148列伝35董文用伝,「二十五年、拝御史中丞。文用曰『中丞不当理細務、吾当先挙賢才』。乃挙胡祗遹・王惲・雷膺・荊幼紀・許楫・孔従道十餘人為按察使、徐琰・魏初為行台中丞、当時以為極選。方是時、桑哥当国、恩寵方盛、自近戚貴人見之、皆屏息遜避、無敢誰何。文用以旧臣任中丞、独不附之。桑哥令人風文用頌己功於帝前、文用不答。桑哥又自謂文用曰『百司皆具食於丞相府矣』。文用又不答。会朔方軍興、糧糗粗備、而誅求愈急、文用謂桑哥曰『民急矣。外難未解而内伐其根本、丞相宜思之』。於是遠邇盗賊蜂起、文用持外郡所上盗賊之目、謂桑哥曰『百姓豈不欲生養安楽哉急法暴斂使至此爾。御史台所以救政事之不及、丞相当助之、不当抑之也。御史台不得行、則民無所赴愬。民無所赴愬、而政日乱、将不止於台事之不行也』。忤其意益深、乃摭拾台事百端、文用日与辯論、不為屈。於是具奏桑哥姦状、詔報文用、語密而外人不知也。桑哥日誣譖文用于帝曰『在朝惟董文用戇傲不聴令、阻撓尚書省、請痛治其罪』。帝曰『彼御史之職也、何罪之有且董文用端謹、朕所素知、汝善視之』。遷大司農。時欲奪民田為屯田、文用固執不可。遷為翰林学士承旨」
  18. ^ a b 藤島1986,19頁
  19. ^ 『元史』巻148列伝35董文用伝,「二十七年、隆福太后在東宮、以文用旧臣、欲使文用授皇孫経、具奏上、以帝命命之。文用毎講説経旨、必附以朝廷故事、丁嚀譬喩、反復開悟、皇孫亦特加敬礼。三十一年、帝命文用以其諸子入見、文用曰『臣蒙国厚恩、死無以報、臣之子、何能為』。命至再三、終不以見。是歳、世祖崩、成宗将即位上都、太后命文用従行。既即位、巡狩三不剌之地、文用曰『先帝新棄天下、陛下巡狩、不以時還、無以慰安元元、宜趣還京師。且臣聞人君猶北辰然、居其所而衆星拱之、不在勤遠略也』。帝悟、即日可其奏。是行也、帝毎召入帳中、問先朝故事、文用亦盛言先帝虚心納賢・開国経世之務、談説或至夜半。文用自先帝時、毎侍燕、与蒙古大臣同列、裕宗嘗就榻上賜酒、使毋下拝跪飲、皆異数也。帝在東宮時、正旦受賀、於衆中見文用、召使前曰『吾向見至尊、甚称汝賢』。輒親取酒飲之。至是、眷賚益厚。是年、詔修先帝実録、陞資徳大夫・知制誥兼修国史。文用於祖宗世系功徳・近戚将相家世勲績、皆記憶貫穿、史官有所考究質問、文用応之無遺失」
  20. ^ 『元史』巻148列伝35董文用伝,「大徳元年、上章請老、賜中統鈔万貫以帰、官一子、郷郡侍養。六月戊寅、以疾卒、年七十有四。子八人士貞・士亨・士楷・士英・士昌・士恒・士廉・士方。贈銀青栄禄大夫・少保・趙国公、諡忠穆」
  21. ^ 『元史』巻190列伝77儒学2陳孚伝,「陳孚字剛中、台州臨海人。......子遘、江浙行省左右司員外郎、致仕。女長嬀、適藁城董士楷」
  22. ^ 藤島1986,21頁

参考文献

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  • 元史』巻148列伝35董文用伝
  • 藤島建樹「元朝治下における漢人一族の歩み--藁城の董氏の場合」『大谷学報』66(3)、1986年
  • 藤野彪/牧野修二編『元朝史論集』汲古書院、2012年
  • 松田孝一「モンゴル国発見の史格の墨書について」『13、14世紀東アジア史料通信』第21号、2013年

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