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菟原処女の伝説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『大和物語』第147段
益荒丁子(ますらをのこ)() (つま)(たがひ)にあらそひ 生田(いくた)にて水鳥 (みづとり)()
上記は画面右上にある原文。「益荒丁子(ますらをのこ)」は「益荒男(ますらお)」のこと、すなわち「立派な男」の意。
摂津名所図会』(江戸時代後期)より。ここに描かれているのは、脚色の加わった『大和物語』第147段、通称「生田川」に基づく内容で、生田川に浮かぶ水鳥を射ようとする2人の男が左手上下に、それを見守る菟原処女が左手中央に見える。石田友汀(石田幽汀の次男)画。

菟原処女の伝説(うないおとめ の でんせつ)とは、奈良時代より日本摂津国 菟原郡 菟原 (現在の兵庫県 芦屋市および神戸市 東灘区付近)での古の出来事として伝えられてきた、一人のおとめ(年若い女性)を巡る悲しい妻争いの伝説である。妻争い伝説(つまあらそい - )ともいう。

2人の男から求婚された娘が自ら命を絶ち、男達も後を追って死んでしまったというもの。

あらすじ

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兵庫県 神戸市の東部地域から芦屋市域にかけてが、当時の難波の先の湿地帯に茂る(あし)を材として屋根を葺いた家々のあったことに由来する「葦屋(あしのや)」の地名で呼ばれていた頃の話である。

菟原処女(うないおとめ)[1] という可憐な娘がいて、多くの若者から思いを寄せられていた。中でも同じ里の菟原壮士(うないおとこ)[2] と、和泉国から来た茅渟壮士(ちぬおとこ)という二人の立派な男性が彼女を深く愛し、妻に迎えたいと激しく争うようになった。娘はこれを嘆き悲しみ、「卑しい私のために立派な男たちが争うのを見ると、生きていても結婚などできましょうか、黄泉で待ちます」と母に語ると自ら命を絶ってしまった。茅渟壮士はその夜、彼女を夢に見て彼女が愛していたのは自分だと知り、後を追った。菟原壮士も負けるものかと小太刀をとって後を追った。その後、親族たちは集まって、このことを長く語り継ごうと、娘の墓を中央に男の墓を両側に作ったという。

文学

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万葉集

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奈良時代末期に成立した『万葉集』では、田辺福麻呂 歌集(「過葦屋処女墓時作歌一首」9-1801〜2)[1] 高橋虫麻呂歌集(「見菟原処女墓歌一首」9-1809〜11)[1] 、および、福麻呂・虫麻呂に追和した大伴家持の歌(「追同処女墓歌一首」9-4211〜12)[1] の3組が、いずれも菟原処女墓(うないおとめのはか)について詠んだ短歌として知られている[1]

高橋虫麻呂の本歌「見菟原処女墓時作歌一首 并短歌」と反歌を以下に挙げる。

本歌原文
葦屋之 菟名負處女之 八年兒之 片生之時従 小放尓 髪多久麻弖尓 並居 家尓毛不所見 虚木綿乃 牢而座在者 見而師香跡 悒憤時之 垣廬成 人之誂時 智弩壮士 宇奈比壮士乃 廬八燎 須酒師競 相結婚 為家類時者 焼大刀乃 手頴押祢利 白檀弓 靫取負而 入水 火尓毛将入跡 立向 競時尓 吾妹子之 母尓語久 倭文手纒 賎吾之故 大夫之 荒争見者 雖生 應合有哉 宍串呂 黄泉尓将待跡 隠沼乃 下延置而 打歎 妹之去者 血沼壮士 其夜夢見 取次寸 追去祁礼婆 後有 菟原壮士伊 仰天 叫於良妣 𬦸[* 1] 地 牙喫建怒而 如己男尓 負而者不有跡 懸佩之 小劔取佩 冬𮏽[* 2] 蕷都良 尋去祁礼婆 親族共 射歸集 永代尓 標将為跡 遐代尓 語将継常 處女墓 中尓造置 壮士墓 此方彼方二 造置有 故縁聞而 雖不知 新喪之如毛 哭泣鶴鴨 — 高橋虫麻呂、『万葉集』巻第九「見菟原處女墓時作歌一首 [并短歌]」[* 3]
反歌《原文》
葦屋之 宇奈比處女之 奥槨乎 徃来跡見者 哭耳之所泣 ─高橋虫麻呂、『万葉集』巻第九「反歌[承前、其一]」
反歌《原文》
墓上之 木枝靡有 如聞 陳努壮士尓之 依家良信母 ─高橋虫麻呂、『万葉集』巻第九「反歌[承前、其二]」

大和物語

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平安時代に書かれた『大和物語』ではこの伝説が脚色され、舞台は生田川となり、娘の親が男たちに難題を出し、3人の死後に墓を作ることについて争いが起きたとされている。

求塚

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観阿弥または世阿弥の作と伝えられる謡曲求塚』では、男たちは刺し違えて死んだことになっている。

人形アニメーション 作家川本喜八郎は、1979年(昭和54年)、この謡曲を基に上映時間19分の人形アニメーション映画『火宅』を製作している[3]

戯曲『生田川』

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明治時代の文豪森鷗外は、この伝説を題材として戯曲生田川』を書き、1910年(明治43年)5月28日・29日、自由劇場小山内薫二代目市川左團次らによって有楽座で上演された。

その他

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川端康成の『たんぽぽ』では、「生田町」「生田病院」「生田川」が舞台地となり、この伝説との関わりを指摘され[4] [5] [6] [7] 三島由紀夫の『獣の戯れ』では、三角関係の共同生活に、『求塚』では死後として描かれる「火宅」が暗示されるなど、小説のモチーフに影響を与えている[8] [9]

旧跡

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神戸市 東灘区 御影塚町にある処女塚は、娘「菟原処女」の墓、付近にある西求女塚(灘区 都通に所在)と東求女塚(東灘区住吉宮町に所在)は2人の求婚者の墓と伝えられる。しかし実際の築造時期はそれぞれ異なっており、発掘調査によって、いずれも三世紀後半から四世紀後半にかけて作られた古墳であり、伝説のように菟原処女と二人の荘子の死を受けて同時に築かれたものではない。しかし万葉集の時代にはこれらの古墳群は海岸沿いにあったことを考えればこの伝説が海から見た古墳の景から生まれたという説がある程度の説得力を持つのではないかと大谷歩は論じている[10]

脚注

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注釈

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  1. ^ 用字は、足偏
  2. ^ 用字は、草冠
  3. ^
    ウィキソースに万葉集/第九巻 の原文があります。

出典

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  1. ^ a b c d e 塩沢一平. "うないおとめ - 万葉神事語辞典". 國學院デジタルミュージアム[1](公式ウェブサイト). 國學院大學. 2019年4月23日閲覧。
  2. ^ 塩沢一平. "うないおとこ - 万葉神事語辞典". 國學院デジタルミュージアム(公式ウェブサイト). 國學院大學. 2019年4月23日閲覧。
  3. ^ "火宅". 喜八郎(公式ウェブサイト). 川本喜八郎. 2019年4月23日閲覧。
  4. ^ 佐伯彰一「解説」(『たんぽぽ』新潮社、1972年9月)。森本・下 2014, pp. 458–460、富岡 2015, p. 223
  5. ^ 「第十章 荒涼たる世界へ――〈魔界〉の終焉 第五節 〈愛〉の相克『たんぽぽ』」(森本・下 2014, pp. 430–457)
  6. ^ 「第十章 荒涼たる世界へ――〈魔界〉の終焉 第六節 謡曲『三井寺』『生田敦盛』『求塚』」(森本・下 2014, pp. 458–481)
  7. ^ 「第9章 抱擁する『魔界』――たんぽぽ」(富岡 2015, pp. 199–224)
  8. ^ 小西 1968。『日本文学研究資料新集30 三島由紀夫 美とエロスの論理』(有精堂、1991年5月)に所収。村松 1990, pp. 333–336、事典 2000, p. 115
  9. ^ 「III 死の栄光――『鏡子の家』から『英霊の聲』へ 〈父〉殺しと〈父〉の発見」(村松 1990, pp. 325–347)
  10. ^ 大谷歩「処女墓伝説歌の生成」(日本文学、66巻(2017)5号)[2]

関連項目

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参考文献

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出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。 記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2019年4月)

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