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紀元前192年

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紀元前192年(きげんぜん192ねん)は、ローマ暦の年である。ローマ建国紀元562年、ルキウス・クィンクティウス・フラミニヌスグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス執政官の年[1]

他の紀年法

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この節は、ウィキプロジェクト 紀年法 ガイドライン に基づいて記述されています。この節に大きな変更を加える場合には、あらかじめ上記プロジェクトのノートで提案し、合意を形成してください。
凡例
  • 分類にある「日本」「中国」「中国周辺」「朝鮮」「ベトナム」は地域概念であり、特定の国家をさすものではなく、またその外延は便宜的に定めたものである。特に「*」の付された王朝の分類は仮配置であり、現在も「ガイドライン」のノートで対応を検討中である。
  • 「中国周辺」は、「広義の北アジア中央アジア、及びこれに隣接する中国の一部地域(ほぼ中央ユーラシアに相当)」を指す。
  • 一段右寄せの箇条に掲げた元号は、その上段の元号を建てた王朝に対抗する私年号である。
  • 仏滅紀元及びユダヤ暦は、現在のところ元年と対応する西暦年から逆算した数を表示しており、旧暦等の暦日の記述とともに確実な出典を確認していないので利用には注意されたい。
  • 皇紀は日本で1873年の太陽暦採用と同時に施行された。
  • 檀紀は大韓民国で1948年から1961年まで公式に使用された。
  • 主体暦は朝鮮民主主義人民共和国で1997年から公式に使用されている。
  • 仏滅紀元は紀元前543年を元年とするタイ仏暦を基準にしている。スリランカなどでは紀元前544年を元年としているので1を加算されたい。

できごと

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共和政ローマ

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ギリシア

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  • ナビス戦争
    • スパルタ僭主 ナビスは失った領土を取り戻すために動き出した。
    • ローマ軍が到着するのを待たずにフィロポイメーンの指揮するアカイア同盟の陸海軍はギュティオンに侵攻した。アカイア同盟軍はスパルタ軍に敗北し、フィロポイメンはTegeaに撤退した。
    • フィロポイメーンが2度目にラコニアに入ると、彼の軍はスパルタの奇襲を受けた。しかしフィロポイメーンはなんとか勝利を収めた。
    • フィロポイメーンのスパルタ占領計画は、ローマの大使フラミニウスの要請によって保留された。その見返りとして、ナビスは現状を維持することを決断した。
    • ナビスはアイトリア同盟に助けを求め、アイトリア同盟は1000の騎馬隊をスパルタに派遣した。
    • ナビスがアイトリアの将軍に暗殺され、スパルタはアイトリアに一時占拠され、宮殿を強奪され、市街も略奪された。しかし、スパルタ市民は反撃し、アイトリア軍を街から追い出した
    • フィロポイメーンはアイトリアの謀反を活かし、アカイア同盟軍とともにスパルタに侵入した。スパルタの支配権を得ると、フィロポイメーンはスパルタをアカイア同盟に加盟させた。
  • アンティオコスに率いられたセレウコス朝の軍は、ローマに反抗したアイトリア同盟の導きでギリシアに侵攻した。アエトリア同盟はアンティオコスを指揮官に指名した。アンティオコスはわずか10500人を率いてテッサリアに上陸し、エウボイア島を占拠した。

誕生

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死去

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  • ナビス:スパルタの僭主(* 誕生年は不詳)

脚注

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注釈

出典

  1. ^ a b c MRR1, p. 350.
  2. ^ a b c MRR1, p. 351.
  3. ^ MRR1, p. 348.

参考文献

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  • T. R. S. Broughton (1951). The Magistrates of the Roman Republic Vol.1. American Philological Association 

関連項目

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ウィキメディア・コモンズには、紀元前192年 に関連するカテゴリがあります。
紀元前2世紀の十年紀と各年

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