米川忠吉
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米川 忠吉 | |
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生誕 |
1932年 10月1日 日本の旗 日本・神奈川県 横浜市 |
死没 |
(2011年09月16日) 2011年 9月16日(78歳没) 日本の旗 日本・東京都 板橋区 |
所属組織 | 航空自衛隊 |
軍歴 | 1955年 - 1990年 |
最終階級 | 航空幕僚長たる空将 |
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米川 忠吉(よねかわ ただよし、1932年(昭和7年)10月1日 [1] - 2011年(平成23年)9月16日)は、日本の航空自衛官。第19代航空幕僚長。
略歴
[編集 ]神奈川県 横浜市出身[2] 。横浜第一中学、希望ヶ丘高校を経て、青山学院大学へ進み[2] 、学生時代はラグビーに熱中した[2] 。入隊の動機は、1955年(昭和30年)頃は不況で入社を予定していた会社は皆、採用中止となり、自衛隊に入隊した親戚やラグビー部の同輩に相談し、入隊を勧められた。陸上自衛隊の採用試験を受験し、第15期一般幹部候補生として採用されたが[2] 、採用となってから航空自衛隊のパイロット要員が足りないため、空自に行かないかとの話があり、興味もあったことから航空自衛隊に入隊した[2] 。入隊後はF-86Fセイバー、C-1 輸送機、F-4 ファントムを操縦した[2] 。最初の空幕勤務は1976年(昭和51年)7月からの運用課第2班長。その翌月に「ミグ25事件」が発生し、対処にあたる[2] 。その後、初代第1輸送航空隊司令、第2航空団司令、北部航空方面隊司令官、飛行教育集団司令官、航空総隊司令官等の要職を歴任し、1987年(昭和62年)12月に第19代航空幕僚長に就任した。
年譜
[編集 ]- 1955年(昭和30年)11月:航空自衛隊入隊(第55期一般幹部候補生)
- 1956年(昭和31年)4月:3等空尉任官
- 1972年(昭和47年)1月1日:2等空佐に昇任
- 1976年(昭和51年)
- 1978年(昭和53年)3月31日:第1輸送航空隊司令
- 1979年(昭和54年)3月16日:航空幕僚監部防衛部運用課長
- 1980年(昭和55年)7月1日:第2航空団副司令
- 1981年(昭和56年)7月1日:空将補に昇任、第2航空団司令
- 1983年(昭和58年)7月1日:航空幕僚監部監察官
- 1984年(昭和59年)
- 1986年(昭和61年)
- 1987年(昭和62年)12月11日:第19代 航空幕僚長に就任
- 1990年(平成02年)7月9日:退官
- 2004年(平成16年)11月3日:瑞宝重光章を受章
- 2011年(平成23年)9月16日:肺炎のため東京都板橋区内の病院で死去(78歳没)。叙・正四位 [3]
栄典
[編集 ]- レジオン・オブ・メリット・コマンダー - 1988年(昭和63年)6月7日
- 瑞宝重光章 - 2004年(平成16年)11月3日
脚注
[編集 ][脚注の使い方]
航空幕僚長(第19代:1987年-1990年) | |
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