コンテンツにスキップ
Wikipedia

米倉昌由

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?"米倉昌由" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL
(2019年9月)
 
米倉昌由
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 安永6年11月9日(1777年 12月8日)
死没 文化13年12月23日(1817年 2月8日)
改名 常菊(幼名)、昌由、栄寛斎(号)
戒名 栄寛斎陽徳院
墓所 東京都 渋谷区の長谷寺
官位 従五位下 丹後守主計頭
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
武蔵 金沢藩
氏族 米倉氏
父母 米倉昌盈米倉昌長
米倉昌賢
米倉昌賢長女・清凛院
昌俊
テンプレートを表示

米倉 昌由(よねくら まさよし)は、江戸時代中期から後期にかけての大名武蔵国 金沢藩5代藩主。六浦藩米倉家8代。官位従五位下丹後守主計頭

略歴

[編集 ]

安永6年(1777年)11月9日、3000石の旗本である米倉昌盈 [1] の次男として誕生。正室は米倉昌賢長女・清凛院。

寛政10年(1798年)、4代藩主・米倉昌賢が死去すると、その婿養子として跡を継ぎ、9月に11代将軍・徳川家斉御目見し、12月に叙任する。そして馬場先門番、半蔵口門番、日光祭礼奉行、一橋門番などを歴任したが、享和3年(1803年)6月15日に病気を理由に養子・昌俊(水野忠鼎の九男)に家督を譲って隠居した。

文化6年(1809年)5月には剃髪して栄寛斎と号した。文化13年(1816年)12月23日、死去。享年40。

系譜

[編集 ]

父母

正室

養子

脚注

[編集 ]
  1. ^ 奥田忠英の次男であり、米津昌倫の長男・昌長の養子
米倉氏武蔵金沢藩5代藩主 (1798年 - 1803年)
米倉家
米倉家

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /