第31回世界卓球選手権
第31回世界卓球選手権(だい31かいせかいたっきゅうせんしゅけん)は、1971年 3月28日から4月7日まで日本の名古屋市 愛知県体育館で開催された世界卓球選手権である。
名古屋市は、1967年の第29回世界卓球選手権開催中に立候補を表明、1968年8月にフランスのリヨンで行われた国際卓球連盟総会で本決まりになったが、1969年の第30回世界卓球選手権大会出発前に後藤鉀二 日本卓球協会会長がいったんは開催返上を表明した。これには北朝鮮と東ドイツの国名呼称や入国問題があった[1] 。また財政難と観客動員力から名古屋ではなく東京での開催の可能性もあった[2] 。第30回世界卓球選手権開催中の1969年4月22日、ミュンヘン市内の商工会議所で行われた国際卓球連盟総会で全会一致で名古屋での開催が決定した[3] 。
中国の6年ぶりの参加
[編集 ]1971年、毛沢東が参加を承認したことから、1961年から1965年まで3大会連続で団体優勝し、1965年の第28回世界卓球選手権では個人団体7種目中、5種目で優勝した後、文化大革命以来2大会連続で不参加だった中国の卓球チームが6年ぶりに世界の舞台に立った[4] 。これは当時の日本卓球協会会長、アジア卓球連盟会長、愛知工業大学学長だった後藤鉀二が地元名古屋での大会を世界一のものとするべく西園寺公一 日本中国文化交流協会常務理事らと協議し、二つの中国の問題解決に必要な処置(台湾をアジア卓球連盟から除名)を取ることを決断[5] [6] 、1971年1月下旬から2月にかけて[7] 、後藤と森武日本卓球協会理事、村岡久平日中文化交流協会事務局長が[4] 、直接中国に渡り周恩来と交渉を行なった結果であった[6] [8] [9] 。こうした動きに対して親台湾派の代議士・石井光次郎が会長を務める日本体育協会 [10] や文部省からのクレーム[11] 、右翼からの脅迫などの反応が見られた[6] [12] 。訪中した後藤は、アジア卓球連盟から台湾を排除するか、後藤がアジア卓球連盟会長を辞任すること、日本社会党が1958年に示した「日中の政治三原則」(中国を敵視する政策をとらない、二つの中国をつくる陰謀に加わらない、中日両国の国交正常化を妨害しない)という草案を提示、中国側の草案には台湾は中国の一つの省に過ぎないことや、蔣介石の名前が入っていたことから交渉は難航、最終的に周恩来の指示により、中国側が折れて2月1日に中国が参加する「会談紀要(覚書)」の調印がなされた。後藤は2月7日にシンガポールで行なわれたアジア卓球連盟総会でを「中国加入・台湾排除」(台湾は、14年前にランガ・ラマヌジャン会長時代に加盟した)を提案したが韓国、マレーシアなどの反対にあい、会長を辞任した[6] [13] 。
アメリカ選手のバス乗り間違い
[編集 ]3月に中国チームは来日、愛知県体育館周辺には厳戒態勢がしかれ、中国チームだけ他国とは別のホテルが割り当てられた。4月4日、会場の愛知県体育館へ向う際にアメリカ合衆国のグレン・コーワンがバスを乗り間違えて中国選手団のバスに乗りこんだ[14] [15] という逸話がある。当時中国選手にはアメリカの選手とだけは接触していけないという鉄の規律があり、外国人と接した場合にはスパイ扱いされる時代であったが、中国のエースである荘則棟はチームメートから反対された[16] にもかかわらず参加前に周恩来総理から「友好第一、試合第二」という言葉を受けたことを思い出し「アメリカの選手と中国の人民は友だちです」と言って握手をして[17] 杭州製錦織[14] (西湖の風景が描かれていた)[15] をお土産として贈ったという。この行為は2人のアスリートによる純粋で自発的なものだったが、中国はこれを外交的なカードとして利用することになった。
会場に到着したバスは報道陣に囲まれ、この出来事は大きく取り上げられた[16] 。アメリカ代表のハリソン副団長からアメリカチームを中国に招待してほしいという申し出があり、荘はそれを外交部に伝えた。中華人民共和国外交部は時期尚早と判断し、周恩来もそれに同調したが、毛沢東主席の鶴の一声により[16] 、アメリカ卓球チームの中国への招待が実現した[14] [18] 。1971年4月10日、1949年に中国共産党による中国大陸制圧後初めて米国人が中国を公式訪問[16] 、その後パキスタンを通じた外交交渉の結果、ヘンリー・キッシンジャーが内密に中国を訪問するなどし[16] [19] 、1972年2月にはリチャード・ニクソンが中国を訪問した [15] 際に人民大会堂で開かれたパーティーでは荘則棟が周恩来から大統領に紹介された[20] 。ピンポン外交により中国とアメリカが国交を回復するまで中国と国交を持っていたのはわずか32カ国であったがその後1年の間に100カ国以上が中国と国交を結んだ[21] 。
なおこの日、当時報道副委員長を務めていた長坂亘通は、元卓球アメリカ代表選手だった新聞記者から「今日は面白いことが起きるぞ」とささやかれていた[22] 。
メダル獲得者
[編集 ]団体戦
[編集 ]種目 | 金 | 銀 | 銅 |
---|---|---|---|
男子団体 | 中華人民共和国の旗 中国 李富栄 (英語版) Li Jingguang 梁戈亮 郗恩庭 荘則棟 |
日本の旗 日本 長谷川信彦 井上哲夫 伊藤繁雄 河野満 田阪登紀夫 |
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア Zlatko Cordas Milivoj Karakasevic Istvan Korpa Antun Stipančić ドラグティン・シュルベク (英語版) |
女子団体 | 日本の旗 日本 今野安子 小和田敏子 大場恵美子 大関行江 |
中華人民共和国の旗 中国 李莉 (英語版) 林慧卿 (英語版) Lin Meiqun 鄭敏之 (英語版) |
大韓民国の旗 韓国 Choi Jung-Sook Chung Hyun-Sook Lee Ailesa Na In-Sook |
個人戦
[編集 ]種目 | 金 | 銀 | 銅 |
---|---|---|---|
男子シングルス | スウェーデンの旗 ステラン・ベンクソン | 日本の旗 伊藤繁雄 | 中華人民共和国の旗 郗恩庭 |
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ドラグティン・シュルベク (英語版) | |||
女子シングルス | 中華人民共和国の旗 林慧卿 (英語版) | 中華人民共和国の旗 鄭敏之 (英語版) | チェコスロバキアの旗 Ilona Vostova |
中華人民共和国の旗 李莉 (英語版) | |||
男子ダブルス | ハンガリーの旗 イストヴァン・ヨニエル ハンガリーの旗 ティボル・クランパ |
中華人民共和国の旗 梁戈亮 中華人民共和国の旗 荘則棟 |
日本の旗 長谷川信彦 日本の旗 田阪登紀夫 |
日本の旗 阿部勝幸 日本の旗 今野裕二郎 | |||
女子ダブルス | 中華人民共和国の旗 林慧卿 (英語版) 中華人民共和国の旗 鄭敏之 (英語版) |
日本の旗 平野美恵子 日本の旗 阪本礼子 |
日本の旗 濱田美穂 日本の旗 大関行江 |
日本の旗 川守田幸子 日本の旗 小堀世津子 | |||
混合ダブルス | 中華人民共和国の旗 張燮林 中華人民共和国の旗 林慧卿 (英語版) |
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 Antun Stipančić ルーマニアの旗 Maria Alexandru |
西ドイツの旗 Eberhard Scholer 西ドイツの旗 Diane Scholer |
日本の旗 西飯徳康 日本の旗 福野美恵子 |
脚注
[編集 ]- ^ 難問かかえた71年世界卓球 どうする国名呼称 妥協案にも双方が反発 読売新聞 1969年4月23日朝刊8ページ
- ^ 71年の大会「東京開催ほぼ確実」後藤会長、国際卓球連盟に報告 朝日新聞 1969年4月18日 朝刊13ページ
- ^ 日本開催、正式に決定 71年の世界卓球 読売新聞 1969年4月22日 夕刊10ページ
- ^ a b "ピンポン外交に始まった中日友好 バトンはタッチされている". 中国国際放送局 (2008年11月26日). 2013年5月29日閲覧。
- ^ 「台湾除き中国招く・名古屋で開く世界卓球後藤協会長が決意」毎日新聞 1970年12月31日
- ^ a b c d 鄭躍慶 (2007年). "「ピンポン外交と後藤鉀二」" (PDF). 愛知淑徳大学. 2011年5月14日閲覧。
- ^ "日中ピンポン外交に尽力―森武さん(1)=60年代、相互訪問で交歓大会=". 時事通信 (2007年10月24日). 2013年5月29日閲覧。
- ^ ""ピンポン外交"地球を走る". 日本卓球協会. 2011年5月14日閲覧。
- ^ "中日卓球交流の50年". 中華人民共和国駐大阪総領事館 (2006年6月1日). 2011年5月14日閲覧。
- ^ 北京から届いた電報 ピンポン外交:4(スポーツひと半世紀) 朝日新聞 1995年1月28日23ページ
- ^ "国際舞台復帰に奔走―森武さん(2)=停滞期経て日中交流揺るがず=". 時事通信 (2007年10月31日). 2013年5月29日閲覧。
- ^ "後藤淳氏、「ピンポン外交」との深い縁". 人民網 (2011年12月23日). 2013年5月29日閲覧。
- ^ 粘って4日、中国折れる ピンポン外交:5 (スポーツひと半世紀)
- ^ a b c 荘則棟「伝説のチャンピオン、波乱万丈の人生を語る Vol.3」『卓球王国』2003年9月、pp. 84-89。
- ^ a b c "選手から大臣...隔離も『ピンポン外交』荘則棟氏". 東京新聞 (2008年7月8日). 2010年5月24日閲覧。
- ^ a b c d e "第2章 ピンポン外交と米中関係『米中友好の起爆剤となったピンポン外交』". 2011年5月14日閲覧。
- ^ "世界卓球3連覇の荘則棟氏が東京で講演 伝説の王者、ピンポン外交を語る" (2004年10月18日). 2010年5月24日閲覧。
- ^ "世界卓球3連覇の荘則棟氏が東京で講演 伝説の王者、ピンポン外交を語る". 愛知大学 (2004年10月18日). 2010年5月24日閲覧。
- ^ 球が世界史刻む ピンポン外交:7(スポーツひと半世紀) 朝日新聞1995年1月31日21ページ
- ^ 荘則棟「伝説のチャンピオン、波乱万丈の人生を語る Vol.4」『卓球王国』2003年10月、pp. 24-29。
- ^ 荘則棟「伝説のチャンピオン、波乱万丈の人生を語る Vol.2」『卓球王国』2003年8月、pp. 32-37。
- ^ (隣国の友 名古屋の民間外交:上)米中関係雪解け、導いた歴史 朝日新聞 2008年2月29日夕刊9ページ
関連項目
[編集 ]外部リンク
[編集 ]- ITTF Museum (英語)
ロンドン 1926 |
ストックホルム 1928 |
ブダペスト 1929 |
ベルリン 1930 |
ブダペスト 1931 |
プラハ 1932 |
バーデン 1933 |
パリ 1934 |
ウェンブリー 1935 |
プラハ 1936 |
バーデン 1937 |
ウェンブリー 1938 |
カイロ 1939 |
パリ 1947 |
ウェンブリー 1948 |
ストックホルム 1949 |
ブダペスト 1950 |
ウィーン 1951 |
ボンベイ 1952 |
ブカレスト 1953 |
ウェンブリー 1954 |
ユトレヒト 1955 |
東京 1956 |
ストックホルム 1957 |
ドルトムント 1959 |
北京 1961 |
プラハ 1963 |
リュブリャナ 1965 |
ストックホルム 1967 |
ミュンヘン 1969 |
名古屋 1971 |
サラエボ 1973 |
カルカッタ 1975 |
バーミンガム 1977 |
平壌 1979 |
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東京 1983 |
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