稲田邦植
稲田 邦植(いなだ くにたね、1855年 12月26日(安政2年11月18日) - 1931年(昭和6年)5月28日)は稲田家16代当主[1] 。稲田家は代々徳島藩の筆頭家老であり、かつ淡路国 洲本城主(現在の兵庫県 洲本市)だった。維新後は男爵。
経歴
[編集 ]安政2年(1855年)11月18日)、14代当主稲田植乗の長男として生まれた[1] 。母は禎寿院。幼名は小八郎。
父が早く亡くなり、15代当主稲田植誠の養子となる[1] 。1865年(慶応元年)12月、11歳で家督を継ぎ、九郎兵衛を名乗る[1] 。徳島藩は佐幕であったのに対して、尊皇攘夷派であったため、早々に新政府軍に帰順した[注 1] 。1868年(慶応4年)、鳥羽・伏見の戦いでは日の御門を守衛し、摂津国 西宮への出兵や高松藩の征討、有栖川宮熾仁親王の護衛などの任を務める[1] 。しかし、これらの出兵は徳島藩裁可を得たものでなく、より一層対立を深めることとなる。
1870年(明治3年)5月、庚午事変により兵庫県貫属となる[1] [注 2] 。同年10月、新政府より北海道 静内郡(現在の新ひだか町の一部)及び色丹島(花咲郡志古丹)を賜り、開拓を命じられる。翌年の1871年(明治4年)3月15日に一向に開拓が進まない徳島藩領となっていて、隣接する新冠郡を加増されるが、7月の廃藩置県により、館藩(松前藩)の旧領を除く北海道全体が北海道開拓使の管轄下となったため、領有権は無くなったが開拓使貫属となり、開拓使のもとで静内の開拓に従事した。明治5年に稲田邸が完成し、1873年(明治6年)、邦植は家族とともに静内に移住した。
1877年(明治10年)西南戦争が起こると予備少尉の任を受け、旧家臣と東京に出陣した。1879年(明治12年)陸軍少尉となり、札幌に在勤した[1] 。静内での実務面は弟の邦衛が行った。1895年(明治28年)に静内の土地や建物は邦衛に譲って徳島県に引退した。
1896年(明治29年)6月9日、勤王および北海道開拓の功により男爵となる[2] [1] 。1910年(明治43年)に正四位。甥の稲田昌植を養子として迎えた。1920年(大正9年)2月10日に隠居し、同年3月10日に昌植が男爵を襲爵した[3] [4] 。
1931年(昭和6年)5月28日、死去[1] 。墓所は、洲本市の江国寺。
栄典
[編集 ]親族
[編集 ](出典:『昭和新修華族家系大成』[8] 、『平成新修旧華族家系大成』[3] )
- 姉:理 - 加納平次右衛門の妻
- 妹:ヤウ - 酒井忠匡室(のち、離縁)、北海道大学初代総長・佐藤昌介の妻
- 弟:稲田邦衛 [要出典 ]
- 妻:むめ(1862年5月 - 1946年11月) - 溝呂木茂兵衛の長女
- 養子・甥:稲田昌植 - 佐藤昌介の二男。貴族院議員
関連作品
[編集 ]- 『北の零年』 - 庚午事変を題材にした映画。作中、静内に船で到着するが時代が変わったとすぐに帰ってしまうのは、史実と異なる。
脚注
[編集 ]注釈
[編集 ]出典
[編集 ]- ^ a b c d e f g h i "徳島幕末維新期人名辞典". 徳島県立文書館. 2023年12月29日閲覧。
- ^ 霞会館諸家資料調査委員会 1982, p. 165.
- ^ a b 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, pp. 178–179.
- ^ 『官報』第2279号、大正9年3月11日。
- ^ 『依勲功特授』 『官報』第3883号「授爵叙任及辞令」1896年6月10日. (1896/6). https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2947163/2
- ^ 『官報』第5842号「叙任及辞令」1902年12月22日。
- ^ 『官報』第8257号「叙任及辞令」1910年12月28日. (1910/12). https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2951610/9
- ^ 霞会館諸家資料調査委員会 1982, p. 164.
参考文献
[編集 ]- 霞会館諸家資料調査委員会 編『昭和新修華族家系大成』 上巻、霞会館、1982年3月10日。NDLJP:12212642/130。 (要登録)
- 霞会館華族家系大成編輯委員会 編『平成新修旧華族家系大成』 上巻、霞会館、1996年。
関連項目
[編集 ]外部リンク
[編集 ]日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 稲田家初代 1896年 - 1920年 |
次代 稲田昌植 |
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