秋山昌詮
表示
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
---|---|
生誕 | 天文20年(1551年)[注 1] |
死没 | 天正7年7月23日(1579年 8月15日)[注 2] |
改名 | 源蔵(幼名)、昌詮 |
戒名 | 正山 |
墓所 | 山梨県 甲州市の恵林寺 |
官位 | 左衛門佐 |
主君 | 武田信玄→勝頼 |
氏族 | 金丸氏→秋山氏 |
父母 |
父:金丸虎義、母:不明 養父:秋山虎繁(晴近) |
兄弟 | 金丸平三郎、土屋昌次、秋山昌詮(景詮)、金丸昌義(定光)、土屋昌恒、土屋正猶(金丸正直)、秋山景氏(親久) |
テンプレートを表示 |
秋山 昌詮(あきやま まさのり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。『寛政重修諸家譜』では景詮とする[1] 。甲斐武田氏の家臣[1] 。左衛門佐 [1] [2] 。
略歴
[編集 ]金丸虎義の三男として誕生[2] 。諱は、『甲斐国志』では昌詮[注 3] [2] 、『寛政重修諸家譜』では景詮とする[1] 。
秋山虎繁(晴近。伯耆守)に男子なく、その養子となる[2] [1] 。甲斐国大崎城を預かった[1] 。『甲陽軍鑑』に拠れば駿河侵攻や西上野侵攻などで活躍したが、若くして病死したという。29歳[1] [2] 。法名は正山[1] 。
駿河国 富士郡(現・静岡県 富士宮市)の富士山本宮浅間大社に奉納された『駿河富士大宮浅間神社神馬奉納記』は天正5年1月から5月の間に成立したと考えられており、神馬を奉納した武田家臣の中に「秋山左衛門尉」の名が見られる。
末弟・親久(景氏)が跡を継いだ[1] [2] 。恵林寺(現・山梨県 甲州市塩山小屋敷)に葬られ、養父と並んで墓がある。
兄弟
[編集 ]○しろまる出典:『寛政重修諸家譜』[3]
脚注
[編集 ]注釈
[編集 ]出典
[編集 ]参考文献
[編集 ]- 『甲斐国志』 下、甲斐叢書刊行会〈甲斐叢書 第十二巻〉、1936年9月25日。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1216019 。 (要登録)
- 『寛政重脩諸家譜』 第一輯、國民圖書、1922年12月18日。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082717 。 オープンアクセス