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秋山充三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
秋山 充三郎
生誕 1885年 2月17日
日本の旗 日本 茨城県
死没 (1944年03月14日) 1944年 3月14日(59歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1906年 - 1937年
1937年 - 1939年
最終階級 陸軍少将
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秋山 充三郎(あきやま みつさぶろう、1885年(明治18年)2月17日 [1] - 1944年(昭和19年)3月14日 [1] )は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功三級 [2]

経歴

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茨城県出身[1] 陸軍士官学校第18期、陸軍大学校第29期卒業[1] 1922年(大正11年)4月、陸軍歩兵少佐に進級し[3] 1923年(大正12年)9月時点で基隆要塞参謀の任にあった[3] 1925年(大正14年)9月時点で歩兵第34連隊附となり[4] 1926年(大正15年)3月に陸軍歩兵中佐に進級した[5] 1927年(昭和2年)3月より歩兵第34連隊附のまま、静岡高等学校に配属され[6] 1928年(昭和3年)9月時点で静岡県立焼津水産学校配属を兼ねた[7]

1929年(昭和4年)3月に第19師団参謀に転じ[8] 1931年(昭和6年)8月に陸軍歩兵大佐進級と同時に高田連隊区司令官に着任した[2] 1933年(昭和8年)3月に歩兵第28連隊長(第7師団・歩兵第14旅団[9] [10] )に転じ[2] 1936年(昭和11年)3月に陸軍少将進級と同時に歩兵第13旅団長(第7師団[9] [11] )に着任した[1] [2] 1937年(昭和12年)8月2日に待命となり[1] 8月22日に予備役に編入されたが[1] 、同年10月12日に召集され、歩兵第127旅団長(中支那方面軍第10軍第114師団)に着任して日中戦争に出動[1] 徐州会戦などの各作戦で奮戦し[1] 1939年(昭和14年)9月25日に召集解除となった[1]

脚注

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参考文献

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  • 外山操・森松俊夫 編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。 
  • 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738 
  • 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026 

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