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神代長良

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神代長良
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文6年(1537年)
死没 天正9年5月28日(1581年 6月29日)
改名 神代勝良(初名)→長良
戒名 梁山宗異
墓所 三瀬山長谷山観音禅寺
官位 刑部大輔
主君 少弐冬尚大友宗麟龍造寺隆信
氏族 神代氏
父母 父:神代勝利、母:副島信告の娘
兄弟 長良種良周利惟利、女(高木長門守室)、女(中島宗円室)、女(東新次郎室)、女(大津留鎮忠室)、関谷鎮利、女(曲渕信助室)、女(杠元満室)
正室:鹿江兼明の娘
長寿丸(千寿丸とも)、初菊、初法師、二郎
養子:家良 (小河信俊の三男)
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神代 長良(くましろ ながよし)は、戦国時代安土桃山時代武将肥前 三瀬城主。

生涯

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天文6年(1537年)、山内二十六ヶ山惣領である神代勝利の嫡子として生まれる。初名は父の1字を取って勝良(かつよし)といった。父と同じく少弐氏の家臣として仕えて龍造寺隆信と戦った。永禄7年(1564年)に父が隠居したため、家督を継いで当主となる。

隆信とは永禄4年(1561年)の川上峡合戦で干戈を交えた後に永禄5年(1562年)に、長良の娘・初菊を隆信の三男・鶴仁王丸(後の後藤家信)へ嫁がせることで和談に至っていたが、永禄8年(1565年)3月に父が病没、また4月に長男・長寿丸(千寿丸とも)と初菊が揃って疱瘡を患い死去すると、それを好機とばかりに隆信勢が居城の千布城へ攻めてくる。不意を突かれた長良は筑前国へ逃れた。しかし、大友家臣である鷲岳城主の大鶴宗周 [1] を頼ると、戸次鑑連(後の立花道雪)・大友宗麟と知遇を得られた。そして、同年8月20日、旧臣の援けと原田隆種らから得た加勢の300騎をもって山内への復帰を果たせた。

翌年、長良は昨年の恨みを晴らすべく、干ばつの最中であった納富信景の領地の水源を断ち、不審に思い現れた信景の嫡子・納富信純(のぶずみ:信澄とも)[2] とその手勢を伏兵にて討ち取った。

その後は大友氏に属し、隆信の居城・村中城攻めに参加、今山の戦いでは家臣数名が討たれている。元亀2年(1571年)、隆信が少弐・大友の領地を攻めるべく出陣している留守を突かんと出陣、これを聞き付けた納富信景と戦った後に和睦、以降は龍造寺家臣となり、小河信俊の子(隆信の義弟である鍋島直茂の甥)である家良(いえよし)を養子として迎えている。天正9年5月28日、三瀬城にて病死した。享年45。

家良の家系は後に佐賀藩の藩主一門格の川久保鍋島家となった。

脚注

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  1. ^ 名は大津留彌助鑑尚、式部少輔鎮忠、弾正入道宗秋、山城入道宗周、安芸入道、右京入道宗秀とも。大津留九郎(名は上総介、式部少輔鎮俊、相模守鎮正、小田部上総入道宗雲、浄慶とも)の三男。
  2. ^ 『北肥戦誌』等の一部史料では弟・義弟などともされている。

参考文献

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  • 『北肥戦誌』(青潮社1995年1月)
  • 『三瀬村史』(三瀬村史編さん委員会)

関連項目

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