礼記子本疏義
礼記子本疏義 (らいきしほんそぎ) は、皇侃・鄭灼によって作られた『礼記』の注釈書で、南北朝時代に作られた経書研究の書物である義疏の一種である[1] 。現代に伝わる義疏は『論語義疏』『孝経述議』など数が少なく、その資料的価値は大きい[1] 。第五十九の一巻のみが現存し、早稲田大学図書館に所蔵され、国宝に指定されている[2] 。
概要
[編集 ]成立
[編集 ]内容はほとんどが皇侃の手になるが、皇侃の弟子の鄭灼の案語も見られる[3] 。また、陳の君主の避諱が見られることから、陳朝に入ってからの著述されたのではないかとされる[3] 。なお、『五経正義』の一つである『礼記正義』は、本書をもとに加筆されて成立したものとされる[3] 。
書名
[編集 ]「子本疏義」という書名の意味については諸説ある。山本巌は、「子本」の由来は不明で、「疏義」は「義疏」の誤写ではないかと指摘する[4] 。一方、喬秀岩は、「子本疏義」という書名について、経注を合抄することから付けられた名称であるとする[5] 。
日本への伝来
[編集 ]古くから日本に伝来し、藤原佐世『日本国見在書目録』に著録される「礼記子本義疏百巻」は、この書物であるとされる[6] 。このうち、第五十九の一巻のみが現存し、早稲田大学図書館に所蔵され、国宝に指定されている[2] 。この本は巻尾に「内家私印」の印があり、これは光明皇后(聖武天皇の皇后)の蔵書印とされる[2] 。
この『礼記子本疏義』写本は、長らく所在が不明であったが、19世紀末に再発見されたという経緯がある。1890年、田中光顕が島田蕃根から『礼記子本疏義』を購入すると、1904年に島田翰『古文旧書考』に『礼記子本疏義』の考察と翻刻が掲載される[2] 。1905年、早稲田大学図書館が田中光顕より『礼記子本疏義』の寄贈をうける。当時の早稲田大学図書館長である市島春城が、田中に直接書簡を送ったことがきっかけである[2] 。1909年には、羅振玉が早稲田大学を訪れ、『礼記子本疏義』を閲覧する。羅振玉は、のちに複製本を影印によって石印本を作製し、「六朝写本礼記子本疏義」と題して自家出版した。この本が一般に流布し、羅振玉の全集にも収録されるなど、広く知られることとなった[2] 。
1931年、文部省国宝保存会・国宝監査会委員が調査し、『礼記子本疏義』が国宝に指定された[2] 。1952年、戦後改めて国宝に指定された[2] 。
近年の研究に、島田翰・羅振玉・鈴木由次郎・山本巌・喬秀岩・大坊眞伸・華喆らによるものがある[6] 。
脚注
[編集 ]注釈
[編集 ]出典
[編集 ]参考文献
[編集 ]- 鈴木由次郎「礼記子本疏残巻考文」『中央大学文学部紀要』第56巻。
- 山本巌「礼記子本疏義考」『宇都宮大学教育学部紀要第1部』第37巻、1987年。
- 喬秀岩『義疏学衰亡史論』白峰社、2001年。
- 大坊眞伸「『礼記子本疏義』と『礼記正義』との比較研究」『大東文化大学漢学会誌』第43巻、2004年。https://opac.daito.ac.jp/repo/repository/daito/1973/ 。
- 高木理久夫「国宝「礼記子本疏義」由来と研究史」『早稲田大学図書館報』第100巻、2021年。http://hdl.handle.net/2065/00081350 。
- 王孫涵之「『礼記子本疏義』分巻考 : 清家『礼記』証本の義疏巻数記号を手掛かりとして」『東方學』第142巻、2021年。
- 高木理久夫「翻刻国宝「礼記子本疏義」」『早稲田大学図書館紀要』第69巻、2022年。http://hdl.handle.net/2065/00083079 。
- 華喆「《礼記子本疏義》校録」『中国典籍與文化論叢』第14巻、鳳凰出版社、2012年。
- 童嶺「六朝旧鈔本《礼記子本疏義》研究史略―兼講《講疏》、《義疏》之別」『中国典籍與文化論叢』第15巻、鳳凰出版社、2013年。