田邊朋之
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田邊朋之 たなべ ともゆき | |
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生年月日 | 1924年 9月12日 |
出生地 | 広島県 庄原市 |
没年月日 | (2002年12月26日) 2002年 12月26日(78歳没) |
死没地 | 京都府 京都市 中京区 |
出身校 | 京都府立医科大学 |
前職 |
医師 京都府医師会会長 |
所属政党 | 無所属 |
称号 |
医学博士 勲三等 旭日中綬章 正五位 |
第24代 京都市長 | |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1989年 8月30日 - 1996年 1月29日 |
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田辺 朋之(田邊 朋之、たなべ ともゆき、1924年(大正13年)9月12日 [1] - 2002年(平成14年)12月26日 [1] )は、日本の政治家、医師。京都市長。広島県出身[1] 。
経歴
[編集 ]広島県 比婆郡 西城町(現在の庄原市西城町)の生まれ。1937年(昭和12年)12歳で大阪に出て旧制四条畷中学(現・大阪府立四條畷高等学校)を経て京都府立医科大学進学。1948年(昭和23年)卒業[1] 後、同大学整形外科助手[1] を務めた後、1957年(昭和32年)京都市 四条通沿いに田辺医院を開業[1] 。1966年(昭和41年)京都府医師会理事から副会長を経て1984年(昭和59年)京都府医師会長就任[1] 。
1989年(平成元年)古都税紛争を引き起こした今川正彦前市長の任期切れに伴う京都市長選挙で、2位の共産党推薦の木村万平と321票差の僅差で当選。二期を務め1996年(平成8年)任期途中で退任した[1] 。期間中、平安遷都1200年記念事業で京都国際市民マラソンや世界歴史会議などを開催[1] 。また規制緩和を進め、京都ホテルやJR京都駅ビルの高層化工事を認め、古都の激しい景観論争が起きる切っ掛けを作った[1] 。また地下鉄東西線整備に尽力した。その他、京都府公安委員も務めた[1] 。
2002年 12月26日、慢性腎不全のため京都市中京区の病院で死去、78歳。死没日をもって正五位に叙される[2] 。
栄典
[編集 ]脚注
[編集 ]参考文献
[編集 ]- 『新訂 現代政治家人名事典:中央・地方の政治家4000人』日外アソシエーツ、2005年。
1931年4月1日編入 |
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