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玉城 (美濃国)

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(2023年12月)
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玉城
(岐阜県)
城郭構造 山城
築城主 佐竹義春
築城年 元弘2年頃(1332年頃)
主な城主 佐竹義春、佐竹義恕、浜六兵衛、杉山内蔵之介
廃城年 慶長5年(1600年)
遺構 曲輪、竪堀、堀切
位置 北緯35度21分45.8秒 東経136度26分09.6秒 / 北緯35.362722度 東経136.436000度 / 35.362722; 136.436000
地図
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玉城(たまじょう)は、岐阜県 不破郡 関ケ原町玉の城山山頂にあった南北朝時代から戦国時代にかけての日本の城(山城)。

構造

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南側に東山道(中山道)、北側に北国街道を見下ろす位置にあり、江濃国境にほど近い標高標高307.5メートルの城山山頂に所在し、主郭は北東から南西にかけて東西200メートルを超える規模で構築されている。主郭の北西には帯曲輪を備え、切岸を挟んで別の帯曲輪を構える。その外側の斜面には土塁を持つ竪堀がいくつか配されている。また、西端は堀切によって山道から隔てられている。南東側は複数の竪堀と小曲輪が置かれている。

歴史

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元弘2年(1332年)頃、足利尊氏と対立した佐竹義春が築いたと伝わり、その子佐竹義恕も在城したという[1] 。戦国時代には浜六兵衛がいたと伝わるほか、明泉寺には弘治年間には竹中氏の家臣、杉山内蔵之介が置かれたとの記録が残る。織田信長により近江の浅井氏が滅ぼされた後は、江濃国境での争いが無くなり廃城となった。大正時代にいたり、城跡が名古屋陸軍兵器補給廠関ケ原分廠(玉の火薬庫)の敷地となる。現在でもその際に整備されたコンクリート杭や有刺鉄線、蛸壺跡が残る。

脚注

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出典

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  1. ^ 梅田晋一『美濃古城史』(1893年)p.41

参考文献

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  • 『岐阜県中世城館跡総合調査報告書 第一集』

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