片山正夫
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片山 正夫 (かたやま まさお) | |
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生誕 |
(1877年09月11日) 1877年 9月11日 日本の旗 日本・岡山県 |
死没 | (1961年06月11日) 1961年 6月11日(83歳没) |
国籍 | 日本の旗 日本 |
研究機関 | 東京帝国大学 |
プロジェクト:人物伝 | |
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片山 正夫(かたやま まさお、1877年 9月11日 - 1961年 6月11日)は、日本の物理化学者。東北帝国大学理科大学教授。開成中学校校長(第9代)。
人物
[編集 ]岡山県都窪郡茶屋町(現・倉敷市茶屋)に生まれる。一高を経て、1900年(明治33年)、東京帝国大学 理科大学化学科を卒業。1902年東京高等工業学校(現・東京工業大学)電気化学科教授となる。1905年秋から1909年初めにかけてスイスとドイツに留学。チューリッヒ工科大学のリヒャルト・ローレンツ (英語版)のもとで電気化学を研究し、可逆電池の起電力がギブスの自由エネルギーであることを明らかにした。ついでベルリン大学のW. ネルンストのもとでボーデンシュタイン (英語版)とともに二酸化窒素および硫酸の解離平衡を研究した。1911年、東北帝国大学 理科大学創立とともに教授となり、物理化学講座を担当した。1915年(大正4年)、液体の表面張力と温度との関係式(片山式)を発表した。1915年(大正4年)、物理化学教科書『化学本論』を出版。原子論の立場に徹底する一方、熱力学を有効に取り入れた教科書であった。10編35章からなる1000ページを超える名著であり、最終的には、第10版(1929年)まで版が重ねられた。この『化学本論』には、宮沢賢治が並々ならぬ興味、愛着を持っていたことが、賢治の弟である宮沢清六の著書『兄のトランク』に記されている。1919年、桜井錠二の後任として東京帝国大学に転任した。1920年代後半に量子化学が生まれるといち早くそれを紹介し、水島三一郎をはじめ、多数の物理化学者を養成して1938年(昭和13年)に定年退官した。
家族
[編集 ]- 父・片山精吾 - 倉敷の大地主で藺莚業者[1] 。
- 妻・和可 - 日本銀行出納局長・鈴木知雄の長女。鈴木は高橋是清の幼馴染でともに米国へ留学、第一高等学校教授、開成中学校長などを務めた[2] [3]
- 長男・片山信夫 - 妻の敏子は新宮凉園の孫。義兄(妻の姉の夫)に村橋俊介。[4]
- 三女・道子 - 原寛(原嘉道二男)の妻[4] 。