熊野広浜
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熊野 広浜(くまの の ひろはま、生年不明 - 神護景雲3年4月6日(769年 5月15日))は、奈良時代中期から後期にかけての女官。紀伊国 牟婁郡 大領家(熊野国造)出身の采女。父は牟婁郡司大領兼熊野神社 禰宜の熊野直伍百足で、姓は直。位階は従四位下。
生涯
[編集 ]聖武朝の天平17年(745年)正月、粟凡若子・気多十千代・飯高笠目・茨田弓束らとともに正六位下から外 従五位下に昇叙したとあるのが、史料における初見[1] 。
淳仁朝の天平宝字5年(761年)6月に、光明皇太后国忌御斎への伴奉の労により、多気弟女・多可浄日らとともに従五位上 から正五位下に昇叙[2] 。
天平神護元年(765年)正月、藤原仲麻呂の乱における論功により、大野仲智・安倍都与利・多可浄日とともに、正五位上になる[3] 。同年、称徳天皇の紀伊国への行幸に随伴し、従四位下に叙される[4] 。本国出身の広浜の伴奉に報いる恩賞であったものと思われる[5] 。
その後、後宮から退き、神護景雲3年(769年)4月、「散事従四位下牟婁采女熊野直広浜卒しぬ」と記されている[6] 。
官歴
[編集 ]『続日本紀』による。
- 時期不詳:正六位下
- 天平17年(745年)正月7日:外 従五位下
- 時期不詳:従五位上
- 天平宝字5年(761年)6月26日:正五位下
- 天平神護元年(765年)正月7日:正五位上。10月22日:従四位下
- 時期不詳:散事
- 神護景雲3年(769年)4月5日:卒去
脚注
[編集 ][脚注の使い方]
参考文献
[編集 ]- 『続日本紀』3新日本古典文学大系14 岩波書店、1992年
- 『続日本紀』4新日本古典文学大系15 岩波書店、1995年
- 宇治谷孟『続日本紀 (中)』講談社学術文庫、1992年
- 『日本古代人名辞典』3 - p716、竹内理三・山田英雄・平野邦雄編、吉川弘文館、1961年
- 『日本女性人名辞典』p399、芳賀登・一番ヶ瀬康子・中嶌邦・祖田浩一編、日本図書センター、1993年
関連項目
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