烏雅束
烏雅束(ウヤス、清寧7年(1061年) - 天慶3年(1113年))は、女真(ジュシェン)の10代目の首長。字は毛路完。廟号は康宗。
金の皇帝の太祖阿骨打(アクダ)・太宗呉乞買(ウキマイ)の長兄。祖父は景祖烏古廼(ウクナイ)。父は世祖劾里鉢(ヘリンボ)。子に謀良虎 (中国語版)(宗雄)・同喬茁・隈可 (中国語版)がいる。
事績
[編集 ]『遼史』および『金史』によれば、乾統3年(1103年)に叔父の穆宗盈歌(インコ、烏古廼の五男)が没すると、その跡を継いで首長となった。
『金史』には、女真完顔部の先祖は朝鮮北部から移住して来た黒水靺鞨の一部族長であった函普(廟号は始祖)だったとあるが、池内宏(東洋史)の詳細な研究によれば、始祖以下昭祖(石魯 (中国語版)(シル、烏古廼の父とされる))にいたる五代の事績は、歴史的事実とは認めがたいという[1] 。史書には、始祖以下、徳帝烏魯 (中国語版)、安帝跋海 (中国語版)、献祖綏可 (中国語版)、昭祖石魯、景祖烏古廼まで父子相続がなされたと記される。烏古廼の事績も歴史的事実とするには疑問の持たれるところもあるが、この時代に生女真の完顔氏が按出虎(アルチュフ)水地方でようやく指導的立場に立ったと考えられる[1] 。その後、首長権は父の劾里鉢(烏古廼の次男)、叔父の頗剌淑 (中国語版)(ポラシェ、廟号は粛宗、烏古廼の四男)、盈歌(インコ)に継承され、烏雅束(ウヤス)がこれを引き継いだ[注釈 1] 。モンゴル系 契丹(キタン)人の遊牧民王朝、遼はインコに生女真節度使の職に任じた[1] 。
烏雅束(ウヤス)は、弟の阿骨打(アクダ)と共に女真完顔部の勢力増大に全力を注いだという。ウヤスは叔父のインコより節度使の職を継ぎ、完顔部の首長となり、生女真諸部を統合した[3] [4] [5] 。また、配下の石適歓を派遣して曷懶甸地方を制圧した[1] [注釈 2] 。ウヤスは、高麗とは7年にわたり戦争し、高麗側はこれを「尹瓘(いんかん)の北征」と称している[6] [注釈 3] 。ウヤスの代、完顔部の支配する領域は、かつての渤海国に匹敵するまでになった[1] 。天慶3年(1113年)、ウヤスは53歳で病没し、この後を弟のアクダが継いだ。
アクダはただちに都勃極烈(トボギレ)の地位に就いて完顔部の首長となり、遼からは節度使の職を授けられた[1] [注釈 4] 。アクダは遼に対して反乱を起こし、収国元年(1115年)、遼から自立して女真(ジュシェン)の国家、金を建てた[3] [4] [5] 。
ウヤスは、後世、皇統4年(1144年)にアクダの孫で金朝の第3代皇帝の熙宗より献敏恭簡皇帝の諡号を贈られた。皇統5年(1145年)に改めて喬陵に厚葬されたという。
関連系図
[編集 ]完顔宗翰
完顔宗雄
斡本(オベン)
完顔宗幹
完顔宗望
繩果(ジェンガ)
完顔宗峻
完顔宗弼
訛里朶(オリド)
完顏宗輔
完顔宗雋
完顔宗磐
完顔宗偉
完顔宗本
完顔秉徳
脚注
[編集 ]注釈
[編集 ]- ^ 祖父の烏古廼(ウクナイ)は長男の劾者(ヘテェ)と次男のヘリンボを一緒に住まわせ、ヘテェが家政の一切を、ヘリンボには主として外事を担当させたという。そうしたこともあってか、ヘテェの子の撒改(サガイ)や孫の粘没喝(ネメガ)は金皇帝のアクダやウキマイと並んで完顔部内で大きな勢力をふるった[2] 。
- ^ 曷懶甸地方とは、朝鮮半島北東部の咸鏡道地方に所在する咸興平野一帯をさしている[1] 。
- ^ 高麗はこの戦いに17万人以上の兵員を送り、国力を挙げた戦いであって有名な戦争だったが、女真側はアクダ以前の歴史でもあり、『金史』の記述はごく簡単なものとなっている[6] 。この戦争は、結果として女真・高麗の和睦に終わっている[6] 。
- ^ 勃極烈(ボギレ)とは、女真人の君長を指し、アクダはボギレの制度を整備して複数のボギレ(大臣)を置き、その合議で諸事案を決定した[3] [5] 。アクダは、自ら都勃極烈としてそのリーダーとなり、大臣会議を主宰した[3] [5] 。
出典
[編集 ]参考文献
[編集 ]- 河内良弘「内陸アジア世界の展開I 2 金王朝の成立とその国家構造」『岩波講座 世界歴史9 中世3』岩波書店、1970年2月。
- 佐伯富 著「金国の侵入/宋の南渡」、宮崎市定 編『世界の歴史6 宋と元』中央公論社〈中公文庫〉、1975年1月。
- 内藤湖南『中国近世史』岩波書店〈岩波文庫〉、2015年7月。ISBN 978-4-00-381171-9。
- 三上次男・神田信夫 編『東北アジアの民族と歴史』山川出版社〈民族の世界史3〉、1989年9月。ISBN 4-634-44030-X。
- 河内良弘 著「第2部第I章2 契丹・女真」、三上・神田 編『東北アジアの民族と歴史』山川出版社〈民族の世界史3〉、1989年。