源正明
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時代 | 平安時代前期 - 中期 |
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生誕 | 寛平5年(893年) |
死没 | 天徳2年3月9日(958年 3月31日) |
改名 | 斉明王→源正明 |
官位 | 正四位下、参議 |
主君 | 醍醐天皇→朱雀天皇→村上天皇 |
氏族 | 光孝源氏 |
父母 | 父:是忠親王、母:不詳 |
兄弟 | 清平、式順王、式瞻王、興我王、源和、忠望王、今扶王、英我王、正明、宗于、姣子女王 |
妻 | 不詳 |
子 | 助理、兼光 |
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源正明(みなもと の まさあき)は、平安時代前期から中期にかけての公卿。光孝天皇の孫。式部卿・是忠親王の子。官位は正四位下・参議。
経歴
[編集 ]醍醐朝中期の延喜10年(910年)二世王の蔭位により従四位下に直叙される。美濃守・丹波権守を経て、延喜17年(917年)侍従、延喜21年(921年)左馬頭と醍醐朝後半からは京官を務め、延長6年(928年)従四位上に叙せられる。
承平4年(935年)右近衛中将に任ぜられると、天慶8年(946年)左近衛中将と、朱雀朝から村上朝にかけて15年近くに亘って近衛中将を務めたのち、天暦5年(951年)参議に任ぜられ公卿に列した。議政官の傍らで弾正大弼を兼ね、天暦6年(952年)正四位下に至る。
天徳2年(958年)3月9日卒去。享年66。最終官位は参議正四位下弾正大弼。
官歴
[編集 ]『公卿補任』による。
- 延喜10年(910年) 正月7日:従四位下(直叙)
- 延喜14年(914年) 正月12日:美濃守
- 延喜15年(915年) 2月22日:丹波権守
- 延喜17年(917年) 正月20日:侍従
- 延喜21年(921年) 正月30日:左馬頭
- 延長2年(924年) 8月9日:兼丹波権守
- 延長6年(928年) 正月7日:従四位上(源氏、治国)
- 承平3年(933年) 正月12日:兼加賀権守
- 承平4年(935年) 12月21日:右近衛中将
- 承平6年(936年) 正月29日:兼伊勢権守
- 承平7年(937年) 3月8日:兼紀伊権守
- 天慶3年(940年) 3月25日?:止紀伊権守[1]
- 天慶4年(941年) 3月28日:兼伊勢権守
- 天慶8年(946年) 3月28日:止伊勢権守[1] 。11月25日:左近衛中将
- 天暦元年(947年) 6月6日:兼讃岐権守
- 天暦5年(951年) 正月30日:参議、止兼官。5月22日:兼弾正大弼
- 天暦6年(952年) 正月7日:正四位下。11月:兼讃岐守
- 天暦9年(955年) 2月7日:兼大和権守
- 天徳2年(958年) 3月9日:卒去(参議正四位下弾正大弼)
系譜
[編集 ]- 父:是忠親王
- 母:不詳
- 生母不詳の子女
- 男子:源助理
- 男子:源兼光
脚注
[編集 ][脚注の使い方]