湯川勝春
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 元亀3年(1572年) |
死没 | 寛永9年(1632年) |
別名 | 太郎五郎(通称)、光春(諱) |
官位 | 丹波守 |
主君 | 豊臣 秀長、小早川 秀秋、浅野 幸長、長晟 |
藩 | 和歌山藩、広島藩 |
氏族 | 湯河氏(湯川氏) |
父母 | 湯河直春 |
兄弟 | 勝春、春安 [1] |
子 | 政春 |
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湯川 勝春(ゆかわ かつはる)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武士。湯河直春の子で、紀伊 和歌山藩・安芸 広島藩の浅野家に仕えた。通称は太郎五郎、丹波(丹波守)[2] 。名字は「湯河」とも書く[2] 。また、諱は光春(みつはる)ともされる[3] [4] 。
生涯
[編集 ]元亀3年(1572年)、紀伊国日高郡小松原(現在の和歌山県 御坊市)を本拠とする国人・湯河直春の子として生まれる[2] 。
父・直春は、天正13年(1585年)の紀州征伐で豊臣秀吉に抵抗した後、和睦し、翌天正14年(1586年)に死去した[5] 。直春が没すると勝春は豊臣秀長に仕え、3,000石の知行を与えられた[6] 。
その後、小早川秀秋に仕えて800石を領し[7] 、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに西軍として参加した後、牢人となった[8] 。
慶長年間、勝春は浅野幸長により700石で召し抱えられ[2] 、名を太郎五郎から丹波に改めた[1] 。浅野長晟に従って安芸国広島へと移り[1] [7] 、宮奉行を務めたとされる[9] 。
勝春の跡は子の政春が継ぎ、浅野光晟に仕えて500石の禄を受けた[1] 。それ以降も湯川氏は浅野家に仕え、政春の後は、春忠、師春、師行、春興、春久、栄次郎、徳之丞(120石、文久3年〈1863年〉に家督継承)と続いた[1] 。
また、勝春の弟である春安の子の春種(勝春の甥)も、慶長6年(1601年)に浅野幸長に仕えた[1] 。春種は安芸入国の際に勘定奉行を務めるなど、重用されたという[1] 。
脚注
[編集 ][脚注の使い方]
- ^ a b c d e f g h 林保登 編『芸藩輯要 附藩士家系名鑑』入玄堂、1933年、第4編118-119頁。全国書誌番号:46085719。
- ^ a b c d 和歌山県史編さん委員会 1989, pp. 512, 513.
- ^ 和歌山県日高郡 編『和歌山県日高郡誌』和歌山県日高郡、1923年、1420頁。全国書誌番号:43042987 。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/978627/787 。
- ^ 仁井田好古等 編『紀伊続風土記 第2輯 伊都 有田 日高 牟婁』帝国地方行政学会出版部、1910年、750頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765518/484 。
- ^ 鈴木眞哉 著「羽柴秀吉の中紀(日高)・紀南方面征討 近露の戦い」、戦国合戦史研究会 編『戦国合戦大事典 第四巻 大阪 奈良 和歌山 三重』新人物往来社、1989年、328-329頁。ISBN 4-404-01595-X。
- ^ 和歌山県史編さん委員会 1989, p. 513; 御坊市史編さん委員会 1981, p. 119, 「紀伊国旧家地士覚書」.
- ^ a b c 和歌山県史編さん委員会 1989, p. 512.
- ^ 和歌山県史編さん委員会 1989, p. 513.
- ^ 御坊市史編さん委員会 1981, p. 113, 「湯河氏代々系図」.