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河村岷雪

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『百富士』第四冊跋文

河村 岷雪(かわむら みんせつ、生没年不詳)は、江戸時代中期の書画 [注釈 1] 家。篆刻家の河村 茗谿[注釈 2] と同一人物説がある。

『百富士』

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岷雪として、『百富士』(全四冊。1767年(明和4年))を版行する。旅路で写生した富士図、全101図を、一丁(見開き2ページ)づつ纏めた(例外3図あり)もので、各図に彼以外による狂歌川柳漢詩が一・二作添えられる。各冊ごとに、以下の副題が付く。

岷雪は、第四冊での跋文(ばつぶん:後書き。)にて、以下のように述べる。

予わかかりし昔 旅行の折々 ここかしこの名勝地にて士峯の風景を望み(略)見るままにうつしとめつ 懐にしてもてかへれり かくする事年久しく成りて 其数あまたつもりぬ (略)その業にとりてはおき 世のこのかみと聞えし人の画きたるをも模して 是かれとりあつめ百紙にあまりぬ 予画法につたなく 経営位置などやうのことは更なり すべて筆のたちとたどたどしく 人に見すべきものにもあらねど(略)年久しく月花のむしろに心しれる友人 これを聞伝えからのやまとの言の葉を選り ともに梓にちりばめ しづかなる窓のうちにながき翫にもせよと せちにすすめらるるにより 今更いなみがたく 人の嘲をもわすれて遂に剞劂(以下略)

明和丁亥(四年)の秋 河村岷雪 葛飾の黙ニ庵にしるす 類之河印(白文方印) 君沖(朱文方印)[3] (読み易くするため、語句を区切った。「予」は小字である。反復符号は仮名に改めた。以下同じ。)

以上の内容から岷雪は、18世紀の江戸に住み、各地を旅し、職業書画家ではなく、『百富士』四冊中、自身で写生したもの以外に、古画の写し(「渡唐 雪舟筆」と「明洲津 探幽斎筆」)が混じることが分かる。

また、序文3本のうち、最初の「柳洲田謙」[注釈 3] によると、「予友人君錫風流雅到衆技兼善画」とあり、「君錫」という号も有ると分かる。

なお、朝岡興禎古画備考』二十六、名画十四巻には、「河村君錫 黙二庵 始称山路道輔 後称神立愚鈍 学松花堂書画 坦斎話 明和頃ノ人」(訓読点を略した。「黙二庵」「坦斎話」は小字。)とあり、「松花堂」は『百富士』序文の二番目を書した人物と、同一の可能性がある[5]

後世への影響

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『百富士』は版を重ねた[6] [7] ゆえ、後世の絵師の「手本」となった。

例えば、与謝蕪村の「富嶽列松図」(1778 - 83年(安永7 - 天明3年)、愛知県美術館蔵。重要文化財 [注釈 4] 。)に、第一冊「松間」の影響が見られる[7]

また、葛飾北斎の『富嶽三十六景』(1831 - 34年(天保2-5年)頃。以下、「三十六景」とする。)・『富嶽百景』(初編:1834年(天保5年)。以下、『百景』とする。)等、複数図から『百富士』との関連が見いだせる。顕著な例は、第一冊「橋下」と、洋風版画「たかはしのふじ」(1805 - 1811年(文化2 - 8年))、及び『三十六景』「深川万年橋下」、『百景』二編「七橋一覧の不二」である[8] [9] [10]

他に、第一冊末の「窗(=窓)中」と、『百景』二編「窗中の不二」も同様である[11] [12] 。そして、鳥居清長の「四季の富士 窗中」(洛東遺芳館蔵)[13] での援用[14] や、フェリックス・レガメも北斎経由で自作『おこま』(1883年)に取り入れている[15] 。岷雪は職業書画家ではないので、『百富士』に奇抜な構図は殆ど無いが、僅かな例外が「松間」と「橋下」、「窗中」等である。

加えて、北斎が確実に訪れた記録がなく[16] [17] 、伝統的な名所でもない『三十六景』「常州牛堀」を描いたのは、『百富士』第四冊「牛堀 常洲」の影響だと考えられる[18] [6] [19]

また、北斎個々の作品に限らず、『三十六景』の構成自体が『百富士』の影響を受けている、具体的には、第一冊の「江府」は勿論だが、第二冊「裏不二」[注釈 5] 、第三冊「東海道」に、上述した第四冊「牛堀」など、取り上げる場所が重複していると指摘される[20] [21]

画像一覧

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河村茗谿

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河村茗鶏の篆刻印影[23]

岷雪と茗谿が同一人物ではと指摘したのは、静岡県立美術館の福士雄也である[24] 。宗善寺(和歌山県 和歌山市和歌浦中)所蔵の『書画貼交屏風』(六曲一双)での貼り交ぜ書画56点の中に、「岷雪筆 茗(朱文方印)」の富嶽図が確認され[25] 中井敬所『続補日本印人伝』の「河村『茗』谿」の項で、「名は類之、あざ名は君錫、江戸に住す。篆苑・図書癖・玄圃積玉あり。」と、前半部は『百富士』序文・跋文及び、『古画備考』の記述に一致する[26]

脚注

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注釈

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  1. ^ 日本において「書」と「画」を分けるのは、1881年(明治14年)の「第二回観古美術会」以降のこと[1] なので、本項では「書画」を一体と捉える。
  2. ^ [2] では「めいけい」と仮名を振っているが、「みょうけい」の可能性も否定できないので、振り仮名は記さないでおく。
  3. ^ 田謙を含む、序文を記した三人についての情報は皆無だが、磯博は、各図に詩を添えた、岷雪と付き合いのある人達だろうと推察する[4]
  4. ^ "文化財オンライン 重要文化財 富嶽列松図". 2020年6月9日閲覧。
  5. ^ 北斎が甲州を訪れた記録は無い[17]

出典

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  1. ^ 東京国立博物館 1973, pp. 219–220.
  2. ^ 日野原 2019, pp. 217.
  3. ^ 磯 1961, pp. 69–70.
  4. ^ 磯 1961, p. 71.
  5. ^ 磯 1961, p. 70.
  6. ^ a b 大久保 2005, p. 102.
  7. ^ a b 福士 2013, p. 13.
  8. ^ 磯 1961, pp. 74–75.
  9. ^ 大久保 2005, p. 100.
  10. ^ 日野原 2019, pp. 29, 218.
  11. ^ 磯 1961, pp. 81–83.
  12. ^ 大久保 2005, pp. 100–101.
  13. ^ 吉田 1963, p. 111.
  14. ^ 大久保 2005, p. 101.
  15. ^ 馬渕 2017, p. 49.
  16. ^ 柳田 1938, pp. 12, 33.
  17. ^ a b 永田 2009, pp. 4–14.
  18. ^ 磯 1961, p. 74.
  19. ^ 日野原 2019, p. 65.
  20. ^ 磯 1961, pp. 72–73.
  21. ^ 大久保 2005, pp. 100–102.
  22. ^ Régamey 1883.
  23. ^ 中田 1966, p. 19.
  24. ^ 福士 2013, pp. 14, 74.
  25. ^ 和歌山県立博物館 2013, pp. 57, 59, 91.
  26. ^ 中田 1966, p. 313.

参考文献

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一次史料

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二次資料

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関連項目

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外部リンク

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