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沢田節蔵

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(2023年1月)
さわだ せつぞう

沢田 節蔵
生誕 (1884年09月09日) 1884年 9月9日
鳥取県 岩井郡浦富村
死没 (1976年07月04日) 1976年 7月4日(91歳没)
出身校 東京帝国大学法学部
職業 外交官教育者実業家
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沢田 節蔵(澤田 節蔵、さわだ せつぞう、1884年(明治17年)9月9日 - 1976年(昭和51年)7月4日)は、日本外交官

人物

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鳥取県 岩井郡浦富村(のち岩美郡 岩美町)出身。東京帝国大学法学部卒業後、外務省に入省、のちに国際連盟帝国事務局長、ブラジル大使を歴任。平和主義者で英米派の立場に立ったリアリストでもあり、国際連盟脱退にあたっては強く反対。大戦時には鈴木貫太郎内閣顧問となり、第二次世界大戦の早期終結のため、カトリッククリスチャンとしてバチカンへの働きかけも図った。戦後は、佐藤尚武らと共に、「霞が関」の長老として重きをおかれると同時に、多方面で活躍。文化放送を設立し会長。1949年東京外国語大学初代学長に就任。世界経済調査会会長。日伯協会会長。 1951年(昭和26年)3月3日、皇太子裕仁親王の欧州訪問30周年の記念日にあたり、当時の関係者の一人として皇居に招かれた[1] 。また、1953年(昭和28年)8月1日にも昭和天皇に拝謁し、日伯中央協会会長としてブラジルの現況を、また、東京外国語大学学長として同大学の状況等を言上[2] 。1955年(昭和30年)2月6日には、ブラジル、パラグアイなどの事情を言上した[3]

外交官沢田廉三(元国連大使、妻美喜三菱財閥本家男爵 岩崎久弥の長女でエリザベス・サンダースホーム創設者)と実業家沢田退蔵(富士紡績元専務、妻光子は米紙Time表紙になった初日本経済人・東京海上元会長各務鎌吉岩崎弥太郎弥之助の姪繁尾の一人娘)は共に弟で、澤田三兄弟として有名。

また長妹は広岡貞子(夫松三郎は元大同生命社長で広岡財閥主人信五郎の長男)、次妹は平生愛子(夫太郎は元山武常務で、甲南学園創設者・元文部大臣枢密顧問官平生釟三郎の長男)、三妹は山本菊子(夫博は元博進社社長)。

栄典

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位階
勲章等

家族親族

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著書

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出典

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  1. ^ 宮内庁『昭和天皇実録第十一』東京書籍、2017年3月30日、189頁。ISBN 978-4-487-74411-4 
  2. ^ 『昭和天皇実録第十一』p577
  3. ^ 宮内庁『昭和天皇実録第十二』東京書籍、2017年3月28日、15頁。ISBN 978-4-487-74412-1 
  4. ^ 『官報』第2212号、「叙任及辞令」1934年05月19日。
  5. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
先代
佐藤尚武
国際連盟帝国事務局長→国際会議帝国事務局長
1930年 - 1934年
次代
堀田正昭
東京外国語大学学長(1949年 - 1955年)
東京外事専門学校長(1949年 - 1951年)
 
前身諸学校長
 
外国語学所学長
東京外国語学校長
高等商業学校附属外国語学校主事
東京外国語学校長
東京外事専門学校長
弁理公使/全権公使(ペトロポリス駐在)
全権公使(リオデジャネイロ駐在)
全権大使(リオデジャネイロ駐在)
全権大使(東京駐在)
全権大使(リオデジャネイロ駐在)
全権大使(ブラジリア駐在)
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