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池田政佑

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曖昧さ回避 池田政弼」あるいは「池田政相」とは別人です。
池田政佑の墓

池田 政佑(いけだ まさすけ、明治16年(1883年)12月1日 - 昭和元年(1926年)12月31日 [1] )は、明治 - 大正期の華族(男爵)、陸軍 軍人。元岡山藩 家老 天城池田家の第12代当主。大正天皇の崩御に際し殉死した。

生涯

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明治16年(1883年)、天城池田家第11代池田政和嫡男として生まれる。

明治40年(1907年)、父政和の隠居により家督を相続し、同年9月11日、男爵を襲爵[2] 。大正13年(1924年)まで近衛歩兵第3連隊に勤務。政佑は「謹厳な皇室中心主義者」で「常に乃木将軍の行為を礼讃していた」という[3]

大正15年(1926年)12月25日、大正天皇が死去すると、政佑は同年12月31日に自殺した。享年41。宮武外骨は、政佑の死を大正天皇への殉死と評価した[3] 。死亡の際には陸軍予備役少佐であった[3] 。墓所は天城池田家墓所(岡山県 倉敷市)。

栄典

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家族・親族

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池田政和の次男。兄の政典は政佑の出生前に夭折している。姉の盈子は、旧岡山藩家老家の土倉光三郎男爵に嫁いだ。

妻は島村干雄 陸軍中将の長女春子[1] 。2男3女があった[1] 。家督は、昭和2年(1927年)長男政之が相続し、男爵の爵位を襲爵する[1]

脚注

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  1. ^ a b c d 『平成新修旧華族家系大成』上巻、107頁。
  2. ^ 『官報』第7263号、明治40年9月12日。
  3. ^ a b c 宮武(1931)、p.42
  4. ^ 『官報』第6135号「叙任及辞令」1903年12月12日。

関連項目

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参考文献

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日本の爵位
先代
池田政和
男爵
(天城)池田家第2代
1907年 - 1926年
次代
池田政之
備前蝶紋 天城池田家12代当主(1907年 - 1926年)

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