毛利莫
毛利 莫(もうり さだむ、1841年(天保12年9月 [1] [2] [3] )- 1920年(大正9年)2月22日[1] [2] [3] )は、幕末の熊本藩士、明治期の公吏・政治家。衆議院議員。名・崧、字・維嶽[1] 。号・北冥、天禄園丁[1] 。
経歴
[編集 ]豊後国 大分郡高田郷鶴崎村[注釈 1] (大分県 [2] 大分郡鶴崎村、鶴崎町 [3] 、鶴崎市を経て現大分市 鶴崎)で、儒学者毛利空桑の五男(第五子)として生まれた[1] 。父から漢学を、剣術は塚本寿八郎、体術は江口太郎右衛門、槍術は富田十郎右衛門、踏水術は武田太郎七、砲術は財津勝之助にそれぞれ師事した[1] 。
尊王派として活動した父の働きを担った[1] 。1866年(慶応2年12月)熊本藩文武芸唱方となり別府に出張[1] 。1867年(慶応3年)長岡護美の上京に随行[1] 。1869年(明治元年12月)藩校時習館の居寮生となる[1] 。その後、鶴崎兵隊唱役助勤に就任[1] 。1871年(明治4年)高田村(現大分市)に移り帰農した[1] 。父が兄らと大楽源太郎庇護の罪により熊本で入獄し、この件に莫は無関係であったが連座して獄に繋がれ、一年後に出獄した[1] 。
1874年(明治7年)第八大区九小区長に就任し、区民に新しい製茶法を奨励[1] [2] 。1876年(明治9年)大分県15等出仕となり、同年12月、司法省15等出仕に転じ、熊本裁判所(現熊本地方裁判所)で勤務し、1877年(明治10年)熊本区裁判所に異動[1] [2] [3] 。西南戦争により郷里に避難し、その後退官した[1] 。大分県庁に出仕して県当分判任雇入警部心得となり、十等警部、九等警部を経て、1878年(明治11年)11月、玖珠郡長に就任[1] [2] [3] 。1885年(明治18年)2月、大分県師範学校長に転じ[1] [2] [3] 、同年9月に退職し帰郷した[1] 。
1889年(明治22年)夏、条約改正案が公表され、これに対して反対の署名を集め、非条約改正案建白書を元老院に提出した[1] 。また同志と豊州会を組織して幹事長に就任し、1892年(明治25年)鶴崎愛郷会が結成されると会長となった[1] [2] 。
1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(大分県第1区、国民協会)で当選[1] [4] 。この際に選挙運動費は葉書代金のみであった[1] 。衆議院議員に1期在任し[2] [3] 、1896年(明治29年)3月の第9帝国議会に「大分県豊後国佐賀関海峡ニ灯台及浮標設置ニ関スル建議案」を莫外二名で提出し、異議無く採択され、関埼灯台の建設に貢献した[1] [5] 。
晩年は悠々自適の生活を送り、1920年2月、鶴崎船頭町の自宅で没した[1] 。
国政選挙歴
[編集 ]- 第1回衆議院議員総選挙(大分県第2区、1890年7月、豊州会)落選[1] [6]
- 第2回衆議院議員総選挙(大分県第1区、1892年2月)落選[6]
- 第4回衆議院議員総選挙(大分県第1区、1894年9月、国民協会)当選[4]
- 第6回衆議院議員総選挙(大分県第1区、1898年8月、無所属)落選[4]
脚注
[編集 ]注釈
[編集 ]- ^ 『鶴崎市史人物篇』438頁では鶴崎七軒町。
出典
[編集 ]参考文献
[編集 ]- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 久多羅木儀一郎『鶴崎市史人物篇』鶴崎市役所、1957年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。