正田作次郎
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正田 作次郎(しょうだ さくじろう、1846年(弘化3年) - 1871年 7月9日(明治4年5月22日))は、横浜の商人(外国米輸入商)。族籍は群馬県平民 [1] [2] 。日清製粉の創業者正田貞一郎は長男。数学者の正田建次郎や日清製粉名誉会長正田英三郎は孫。
上皇后美智子の曽祖父。第126代天皇・徳仁(今上天皇)の高祖父。
人物
[編集 ]上野国館林(現・群馬県館林市)出身[3] 。米穀商・三代正田文右衛門の二男。正田家は代々「米文」の暖簾のもとに米問屋を家業としていた。作次郎は幕末の動乱時代に成長した。幼少の時から文学を愛好し、漢学は田中泥斎に師事し、書は掖山について習得した。
小生川(現・栃木県足利市福富町)で代々代官をしていた格式の高い家柄である長家の長女幸と結婚。間もなく横浜へ出た。住居は野毛山に家を新築した。
作次郎は南京米の輸入などを業として手広く貿易を行っていた[4] 。輸入商のかたわら、岸田吟香等とともにヘボン博士から英語を学んだ。1871年、風邪のため26歳で亡くなった。墓所は市川市遠寿院。
家族・親族
[編集 ]- 正田家
- 祖父・二代文右衛門
- 父・三代文右衛門 (1818年 - 1895年) - 群馬県邑楽郡館林町字目車町(現・館林市栄町)に居住[5] 。
- 妻・幸(栃木、長家の長女、日蓮宗の信者) - 幸は信仰心が強く、成長して日蓮宗の信者となった。作次郎が亡くなると、妻・幸は幼年の貞一郎を伴って夫の郷里の館林に帰った[4] 。
- 長男・貞一郎 [1] [2] (1870年 - 1961年、日清製粉社長[4] ) - 横浜生まれで、館林の祖父文右衛門の薫陶を受けて人となった[4] 。高等商業学校卒業[3] 。日本の製粉業界の権威であり、同時に財界に於ける一方の重鎮であった[4] 。
脚注
[編集 ]- ^ a b 『人事興信録 第5版』し43頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年2月5日閲覧。
- ^ a b 『人事興信録 第6版』し24頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年11月17日閲覧。
- ^ a b 『財界一百人』53 - 56頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年11月17日閲覧。
- ^ a b c d e 『非常時財界の首脳』87 - 90頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年2月5日閲覧。
- ^ 『群馬県営業便覧 附・繁昌記』416 - 417頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年2月5日閲覧。
参考文献
[編集 ]- 遠間平一郎(妖星)『財界一百人』中央評論社、1912年。
- 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
- 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
- 武田経済研究所『非常時財界の首脳』武田経済研究所、1938年。
- 群馬県邑楽郡館林町編『館林人物誌』群馬県邑楽郡館林町、1941年。
- 菊地浩之『日本の地方財閥 知られざる経済名門』平凡社、2012年。
関連項目
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徳仁の系譜 |
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