楠木正季
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『楠正成千破城ニテ音楽歌の英気を礼スの図』より「楠帯刀正季」(歌川貞秀) | |
時代 | 鎌倉時代末期 - 南北朝時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 延元元年/建武3年5月25日(1336年 7月4日) |
別名 |
正氏、正景 通称:帯刀、和田七郎 |
墓所 | 観心寺 |
官位 | 帯刀舎人、武者所番衆、窪所番衆 |
主君 | 後醍醐天皇 |
氏族 | 楠木氏→河内和田氏 |
父母 | 正遠? |
兄弟 | 俊親?、正成、正季 |
子 | 正氏、賢快(賢秀)、行忠 |
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楠木 正季(くすのき まさすえ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。河内国の豪族・楠木正成の弟。七郎・帯刀と称した。
概要
[編集 ]元弘3年/正慶2年2月22日(1333年 3月8日)から閏2月1日(3月17日)にかけて、上赤坂城の戦いで主将平野将監入道のもと副将として活躍する。
1336年(建武7年/延元元年)に兄の正成は九州から京都を目指す足利尊氏の軍に対して新田義貞の指揮下で戦う事を命じられ、湊川の戦いで敗北する。そして、兄・正成と共に、自害して果てた[1] 。
正成と正季の死に関しては『太平記』(二)巻第十六「正成兄弟討死事」に述べられている[1] 。敗走して手勢の少なくなった楠木勢73人は民家に駆け込み、六間の客殿に二列に並んで座り十念を唱えながら自害したという[1] 。死に際に正成が正季に九界のうちどこに行くことを願うか問うと、正季は「七生マデ只同ジ人間ニ生レテ、朝敵ヲ滅サバヤトコソ存候へ」と答えたという[1] 。これはのちの「七生報国」の語の由来になった。
関連作品
[編集 ]脚注
[編集 ]- ^ a b c d 大山眞一「中世武士の生死観(7)―『太平記』における「死にざま」と「生きざま」の諸相」日本大学大学院総合社会情報研究科紀要 No.10, 343-354 (2009) 日本大学、2021年1月10日閲覧。
- ^ 平輪, 光三、佐々木, 靖章『野口雨情』(snippet)日本図書センター、1987年。https://books.google.co.jp/books?id=BUPUAAAAMAAJ 。 p.15 によれば楠木正季より数えて十代の野ロ勝親が、徳川光圀から賜ったとつたわる茶碗を親友にゆずったとある。