桑名照弐
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桑名 照弐 | |
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生誕 |
1885年 3月1日 日本の旗 日本 大分県 |
死没 | (1976年12月28日) 1976年 12月28日(91歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 |
1907年 - 1939年 1945年 |
最終階級 | 陸軍少将 |
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桑名 照弐(くわな てるに[1] 、1885年(明治18年)3月1日 [2] - 1976年(昭和51年)12月28日 [2] )は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功三級 [1] 。
経歴
[編集 ]1885年(明治18年)に大分県で生まれた[2] 。陸軍士官学校第19期、陸軍大学校第28期卒業[3] 。1932年(昭和7年)2月10日に第1師団司令部附となり早稲田大学に配属され[1] 、4月11日に陸軍歩兵大佐に進級した[1] 。1934年(昭和9年)3月に歩兵第20連隊長に転じ[1] 、1935年(昭和10年)8月に近衛師団司令部附となり[1] 、明治大学に配属された[1] 。
1936年(昭和11年)8月1日に陸軍少将に進級と同時に第12師団司令部附となり[1] [2] 、1937年(昭和12年)3月1日に澎湖島要塞司令官に就任した[2] 。12月27日に歩兵第35旅団長(第10軍・第18師団)に転じ[2] 、日中戦争に出動[3] 。杭州湾に上陸し、南京攻略戦、広徳での掃討戦に参加[3] 。その後バイアス湾に上陸し[3] 、広東を攻略した[3] 。1938年(昭和13年)12月に留守第11師団司令部附となり[2] 、1939年(昭和14年)3月9日に待命[2] 、3月22日に予備役に編入された[2] 。同年9月に明治大学指導局長に就任(前任者は松室孝良)[4] 。1945年(昭和20年)3月31日に召集され、豊原連隊区司令官兼豊原地区司令官に就任したが[5] 、4月30日に豊原連隊区司令部附となった[6] 。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[7] 。
脚注
[編集 ][脚注の使い方]
- ^ a b c d e f g h 外山 1981, 245頁.
- ^ a b c d e f g h i 福川 2001, 290頁.
- ^ a b c d e 福川 2001, 291頁.
- ^ 明治大学 『明治大学六十年史』 1940年、85頁
- ^ 「第74号 昭和20年3月31日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120937900
- ^ 「第101号 昭和20年5月1日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120941200
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」54頁。
参考文献
[編集 ]- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。