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柳家小はん

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柳家 小はん(やなぎや こはん)は、落語名跡。現在は空き名跡。

初代

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初代 柳家(やなぎや) ()はん
本名 鶴見(つるみ) 正四郎(しょうしろう)
生年月日 1873年
没年月日 1953年 2月6日
師匠 三代目柳家小さん
名跡 1.(不明)
(? - 1911年)
2.柳家小太郎
(1911年 - ?)
3.柳家さん喬
(不詳)
4.初代柳家小はん
(? - 1953年)
活動期間 ? - 1953年
活動内容 落語家
所属 三友派
(参加時期不詳)
東京寄席演芸株式会社
(? - 1923年)
落語協会
(1923年 - 1925年)
落語革新派
(1925年 - 1926年)
日本芸術協会
(参加時期不詳)

初代柳家 小はん(1873年 - 1953年 2月6日)は、落語家。

経歴

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第一高等学校 大学予科第二部学科を経て、1899年東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業。

三代目柳家小さんに入門。当時の名は不明。1911年柳家小太郎となるがその後何らかの理由で上方に出向き柳家さん喬を名乗り大八会寄席に出演する。

そののち小さんが来阪し三友派に出演の際に初代三遊亭右女助の口利きで詫びを入れたさん喬は小さんの前で一席やって認めてもらう。小さんはさん喬に柳家小はんを名乗らせ、一切の費用を小さんが工面し独演会を催させた。

関東大震災後、東京に戻り1924年11月上席に当時小さんの持ち席だった四谷青柳亭で真打披露を行った。

1925年には落語革新派三代目三遊亭圓楽四代目柳家小山三らと結成。のちに革新派は解散する。

戦後1947年日本芸術協会の連名に名を連ねている。

人物

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上方のネタ「打飼盗人」「住吉駕籠」を東京で「夏どろ」「蜘蛛駕籠」として演じて人気を博した。八代目雷門助六五代目柳家小さんにいくつかネタを稽古を付けたという。

実子は銀行家の鶴見正彦でその妻は岩倉具明の娘[1]

参考文献

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外部リンク

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2代目

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二代目 柳家(やなぎや) ()はん
Yanagiya Kohan the 2nd
二代目 柳家(やなぎや) 小(こ)はん Yanagiya Kohan the 2nd
本名 渡辺(わたなべ) 研三(けんぞう)
生年月日 1941年 12月18日
没年月日 (2022年04月25日) 2022年 4月25日(80歳没)
出身地 日本の旗 日本東京都 足立区
師匠 三代目桂三木助
五代目柳家小さん
名跡 1. 桂木久弥
(1960年 - 1961年)
2. 初代柳家さん彌
(1961年 - 1975年)
3. 二代目柳家小はん
(1975年 - 2022年)
出囃子 並木駒形
活動期間 1960年 - 2020年
所属 落語協会

二代目 柳家 小はん(やなぎや こはん、1941年 12月18日 - 2022年 4月25日)は、東京都 足立区出身の落語家。本名∶渡辺 研三出囃子は『並木駒形』。

経歴

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東京都立上野高校卒業後1960年3月、三代目桂三木助に入門し「桂木久弥」で初高座を踏むが翌年3月に師匠三木助が死去したため五代目柳家小さん門下に移籍し、「柳家さん弥 」に改名。

1963年10月に二ツ目昇進。

1973年9月に林家木久蔵三遊亭好生桂文平四代目三遊亭歌笑三遊亭生之助橘家三蔵柳家小きん三遊亭歌雀、柳家さん弥、金原亭桂太の十人で真打昇進。1975年3月に二代目柳家小はんを襲名した。

2020年 3月19日池袋演芸場が定席最後の出演となる[2] 2022年 4月25日14時30分、膵臓がんのため、死去[2] 。80歳没。

芸歴

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人物

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日舞花柳流小唄春日流新内節岡本派茶道江戸千家などの余芸も一品。

古今亭菊龍によく稽古をつけた。

趣味は気功

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 鶴見正彦 歴史が眠る多磨霊園
  2. ^ a b 柳家小はん 訃報 - 一般社団法人 落語協会 2022年5月6日

外部リンク

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