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板倉重種

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板倉 重種
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛永18年1月5日(1641年 2月14日)
死没 宝永2年9月19日(1705年 11月5日)
改名 弁之助(幼名)→重道・重通(初名)→重種
別名 六左衛門(通称)、玄真(号)
官位 従五位下、兵庫頭、石見守、従四位下、内膳
幕府 江戸幕府 奏者番寺社奉行老中
主君 徳川家綱綱吉
下野 烏山藩主→武蔵 岩槻藩主→信濃 坂木藩
氏族 板倉氏
父母 父:板倉重矩、母:小出吉親の娘
養父:板倉重直
兄弟 重良重澄重種、豊(相良頼福正室)他
加藤直泰の養女(一柳直次の娘)
重寛
養子:重宣 (相良頼福正室)
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板倉 重種(いたくら しげたね)は、江戸時代前期の大名老中下野 烏山藩主、後に武蔵 岩槻藩主、信濃 坂木藩主。重昌流板倉家第3代。

生涯

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板倉重矩の三男。最初は叔父の旗本 板倉重直の下に養子に出されていたが、長兄・重良廃嫡と次兄・重澄の早世により、延宝元年(1673年)に父の死後、家督を相続した[1] [2]

延宝5年(1677年)6月に奏者番寺社奉行に任命、延宝8年(1680年)5月に4代将軍 徳川家綱が死去、異母弟の5代将軍徳川綱吉により9月に老中に抜擢される[2] [3] 。翌天和元年(1681年)2月に1万石加増で武蔵岩槻に転封、8月に綱吉の息子徳松付きの西の丸老中も兼任したが、綱吉の世嗣に綱吉の甥綱豊を推す水戸藩徳川光圀と対立した(光圀は徳川一門の長老として家綱没前から綱豊を将軍候補に推していた)[2] [4] [5] 。さらに自身の後継者問題も発生、実子の重寛と甥の重宣との家督争いが発生して家中が乱れた。これらが原因で11月に老中を免職され、翌天和2年(1682年)2月に綱吉から1万石減封の上、信濃坂木に懲罰的転封を命じられた[2] [6] [5]

隠居前から領地奉還を幕府に願い出ていたが、祖先の功績により許され、天和3年(1683年)5月の重種の隠居と同時に5万石のうち3万石を重寛に、2万石を重宣(後に上総 高滝藩主)に分知した[5] [7] 。宝永2年(1705年)、65歳で死去した[2]

これ以降、坂木に居を置く者はなく、再び幕府領となった。

年譜

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官歴

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系譜

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父母

正室

子女

養子女

脚注

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参考文献

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  • 『新編物語藩史 第2巻』新人物往来社、1976年。
  • 藩主人名事典編纂委員会編『三百藩藩主人名事典 一』新人物往来社、1986年。
  • 山本博文『お殿様たちの出世 江戸幕府老中への道』新潮社、2007年。
板倉家烏山藩2代藩主 (1673年 - 1681年)
成田家
松下家
堀家
板倉家
那須家
永井家
稲垣家
大久保家
板倉家 岩槻藩藩主 (1681年 - 1682年)
高力家
青山家
阿部家
板倉家
戸田家
藤井松平家
小笠原家
永井家
大岡家
板倉氏坂木藩初代藩主 (1682年 - 1683年)

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