松本勝太郎
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松本勝太郎 まつもと かつたろう | |
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生年月日 | 1874年 4月13日 |
出生地 | 日本の旗 日本 広島県 呉市 |
没年月日 | (1959年02月02日) 1959年 2月2日(84歳没) |
所属政党 | 同和会 |
子女 |
長男・松本俊一 三男・松本賢一 |
在任期間 | 1925年 9月29日 - 1947年 5月2日 |
在任期間 | 1935年 6月13日 - 1936年 9月1日 |
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松本 勝太郎(まつもと かつたろう、1874年(明治7年)4月13日[1] [2] - 1959年(昭和34年)2月2日[3] )は、明治後期から昭和期の実業家、政治家、広島県多額納税者[2] [4] [5] 。貴族院多額納税者議員、第12代呉 市長。松本組代表[2] 。呉商工会議所顧問[6] 。
経歴
[編集 ]広島県 広村 [要出典 ](現・呉市)出身。松本栄助の息子[2] [6] 。1893年(明治26年)に家督を相続した[6] [7] 。
土木鉱業運輸業を営む[6] 。松本組社長、呉工業社長、広島瓦斯電軌社長(広島ガス・広島電鉄)、芸南電気軌道社長、京城商工会議所議員、朝鮮土木建築協会長などを歴任[3] [8] 。
1925年(大正14年)広島県多額納税者として貴族院多額納税者議員に互選され、同年9月29日に就任し、同和会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任[3] 。1928年(昭和3年)第14回万国議員商事会議、第25回列国議会同盟会議に出席のためヨーロッパに外遊した[3] 。
また、1935年(昭和10年)6月から1936年(昭和11年)9月まで呉市長を務めた[7] 。
人物
[編集 ]処世の信条は「権利よりも義務、忍耐節約」[8] 。宗教は真宗 [2] 。趣味は園芸 [2] 、囲碁 [8] 。住所は呉市中通1丁目[6] [8] 。東京宅は渋谷区穏田 [2] 。
著作
[編集 ]- 『海外を巡りて』日本評論社、1929年。
家族・親族
[編集 ]- 松本家
- 長男・俊一 (1897年 - 1987年、外交官)[9]
- 二男・栄一(1900年 - 1984年、文学博士)[6]
- 三男・賢一 (1903年 - 1990年、呉市長、参議院議員)[10]
- 四男[2]
- 長女[2]
- 養子[2]
脚注
[編集 ]- ^ 『日本人名大辞典』1787頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『大衆人事録 第12版 近畿・中国・四国・九州篇』広島28頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年10月17日閲覧。
- ^ a b c d 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』221-222頁。
- ^ 『日本紳士録 第31版』付録 全国多額納税者 広島県60頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年7月6日閲覧。
- ^ 『日本紳士録 第37版附録 多額納税者名簿』附録 全国多額納税者 広島県63頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年7月6日閲覧。
- ^ a b c d e f 『人事興信録 第13版 下』マ123頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年2月12日閲覧。
- ^ a b 『日本の歴代市長 第3巻』112頁。
- ^ a b c d 『広島県紳士録 昭和8年版』114頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年2月12日閲覧。
- ^ 「松本俊一」『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年、485頁。
- ^ 『日本の歴代市長 第3巻』115頁。
参考文献
[編集 ]- 交詢社編『日本紳士録 第31版』交詢社、1927年。
- 交詢社編『日本紳士録 第37版附録 多額納税者名簿』交詢社、1933年。
- 『広島県紳士録 昭和8年版』西日本興信所、1933年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第12版 近畿・中国・四国・九州篇』帝国秘密探偵社、1938年。
- 人事興信所編『人事興信録 第13版 下』人事興信所、1941年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長 第3巻』歴代知事編纂会、1985年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。