李元暉
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李元暉 | |
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プロフィール | |
出生: | 1898年(清 光緒24年)[1] |
死去: | 不詳 |
出身地: | 清の旗 清 江蘇省 呉県 [1] |
職業: | 官僚・政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 李元暉 |
簡体字: | 李元晖 |
拼音: | Lǐ Yuánhuī |
ラテン字: | Li Yüan-hui |
和名表記: | り げんき |
発音転記: | リー・ユエンフイ |
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李 元暉(り げんき、1898年 - ?)は、中華民国の官僚・政治家。中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会で各職を歴任した。呉甌・夏粛初と共に、王揖唐側近の部下と目された。
事績
[編集 ]師の王揖唐に従う形で李元暉も中華民国臨時政府に参与し、振済部長・内政部長を務めた王の下で秘書・簡任秘書を歴任した。1940年(民国29年)3月に臨時政府が汪兆銘政権に合流、華北政務委員会になると、李元暉は内務税署簡任秘書となる。その後、考試院参事、華北政務委員会政務庁簡任秘書を歴任し、1941年(民国30年)2月に同委員会秘書庁文案処長となった[1] 。同年中には、王の詩集『逸塘詩存』を編纂した[2] 。
1942年(民国31年)4月11日、華北政務委員会秘書庁長・夏粛初が政務庁長に転じたため、李元暉が後任の秘書庁長となった。翌1943年(民国22年)2月、王揖唐の華北政務委員会委員長辞職と併せ、李も秘書庁長を退任している[3] 。
以後、李元暉の行方は不詳である。
脚注
[編集 ]参考文献
[編集 ]- 王揖唐著、李元暉編『逸塘詩存』1941年。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 満蒙資料協会編『中国紳士録 第二版』満蒙資料協会、1942年。
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