朽木英次
表示
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
生年月日 | (1962年12月25日) 1962年 12月25日(62歳) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
出身地 | 日本の旗 福井県 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大学 | 日本体育大学 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ラグビーユニオンでの経歴 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
朽木 英次(くつき えいじ、1962年 12月25日 - )は、日本の元ラグビー選手、同指導者。
プロフィール
[編集 ]来歴
[編集 ]福井県立若狭農林高校(現在の若狭東高校)を経て、日本体育大学へ進む。その後、トヨタ自動車(現 トヨタ自動車ヴェルブリッツ)に入社。
1985年の対フランス戦がラグビー日本代表初キャップ試合。以後、主に平尾誠二とのコンビで長年に亘り、日本代表の右センターの座を不動のものにし、通算30キャップを獲得。また、全国社会人大会では1985年度と1986年度、日本ラグビーフットボール選手権大会(以下、日本選手権)では1986年度にそれぞれ優勝を経験した。
そして、ラグビーワールドカップでは第1回の1987年、第2回の1991年に代表選出され、1991年の大会でジンバブエを破った試合を含め、出場機会を得た全6試合に出場した[2] 。
現役引退後はトヨタ自動車ヴェルブリッツの監督に就任。しかし、2005年度シーズンの日本選手権2回戦において、早稲田大学に苦杯を舐めたため、進退伺いを出す羽目になった。結局2007年度限りで同職を退任。その後部長を歴任した。
2023年12月1日、日本ラグビーフットボール協会の事業遂行責任者ラグビー担当(Chief Rugby Officer)となる[3] 。
関連項目
[編集 ]参考文献
[編集 ]- 日本ラグビー狂会編 『日本ラグビー復活の鼓動』 双葉社
- 『ザ・ワールドラグビー』 (大友信彦 編、新潮社、ISBN 4104627011)の33ページ
脚注
[編集 ]- ^ 30年前、スコットランドに勝った男 ラグビー元日本代表朽木英次さんエール | スポーツ | 福井のニュース | 福井新聞ONLINE 2019年10月11日 午後5時00分
- ^ INC, SANKEI DIGITAL (2019年10月13日). "【ラグビーW杯】元日本代表の朽木英次氏「よくぞ歴史を変えてくれた」 8強進出にエール". 産経ニュース. 2023年12月7日閲覧。
- ^ JRFU. "代表強化部門体制について|日本ラグビーフットボール協会|RUGBY:FOR ALL「ノーサイドの精神」を、日本へ、世界へ。". www.rugby-japan.jp. 2023年12月7日閲覧。
1930年代 (19名) | |
---|---|
1950年代 (27名) | |
1960年代 (11名) | |
1970年代 (25名) | |
1980年代 (28名) | |
1990年代 (30名) | |
2000年代 (56名) |
|
2010年代 (45名) | |
2020年代 (20名) | |
|
Flag of Japan Biography icon Stub icon 2
この項目は、日本のラグビーユニオン関連人物に関連した書きかけの項目 です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:ラグビー)。