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本多忠典

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曖昧さ回避 本多忠常」あるいは「本多忠恒」とは別人です。
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(2019年10月)
 
本多忠典
時代 江戸時代中期
生誕 宝暦14年1月24日(1764年 2月25日)
死没 寛政2年8月26日(1790年 10月4日)
改名 長之進(幼名)、忠典
戒名 真誉実際義空縁了院
墓所 東京都 府中市紅葉丘の誓願寺
官位 従五位下中務大輔
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
三河 岡崎藩
氏族 本多氏(平八郎家)
父母 :本多忠盈:法王院(松井氏)
養父:本多忠粛
正室:了智院(秋元永朝の娘)
養子:忠顕
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本多 忠典(ほんだ ただつね)は、江戸時代中期の大名三河国 岡崎藩の第2代藩主官位従五位下中務大輔。忠勝系本多家宗家12代。

生涯

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宝暦14年(1764年)1月24日、石見国 浜田藩主・本多忠盈の次男として石見浜田にて誕生。安永6年(1777年)に岡崎藩主・本多忠粛が死去したため、その養子として家督を継ぐ。しかし本多氏は、相次ぐ移封で財政難となる。そのため、幕府に豊かな土地への移封を願い出るが許されず、代わって安永7年(1778年)に1万両を10年かけて与えられることとなり、諸役も免除されることとなった。天明3年(1783年)には預かり地を与えてもらうように幕府に願い出るが、これも許されなかった。

寛政2年(1790年)8月26日、江戸で死去した。享年27。跡を養子・忠顕(松平頼謙の次男)が継いだが、相次ぐ藩主の早世と養子問題から、死後に藩内で家督抗争が起こった。

系譜

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父母

正室

養子


本多氏岡崎藩2代藩主 (1777年 - 1790年)
本多家
水野家
松井松平家
本多家

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