末藤知文
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末藤 知文 | |
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生誕 |
1892年 5月1日 日本の旗 日本 福岡県 |
死没 | (1966年09月25日) 1966年 9月25日(74歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1913年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
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末藤 知文(すえふじ ともふみ、1892年(明治25年)5月1日 [1] - 1966年(昭和41年)9月25日 [1] )は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級 [2]
経歴
[編集 ]1892年(明治25年)に福岡県で生まれた[1] 。陸軍士官学校第25期、陸軍大学校第38期卒業[1] 。ソ連駐在を経て、1937年(昭和12年)8月2日に陸軍歩兵大佐に進級し[2] 、8月22日に上海派遣軍参謀兼特務部諜報班長に着任[2] 。1938年(昭和13年)3月に中部防衛参謀に転じ[2] 、1939年(昭和14年)3月9日に第6国境守備隊長に就任した[2] 。
同年8月1日に陸軍少将に進級し[2] 、1940年(昭和15年)2月10日に第38歩兵団長(南支那方面軍・第38師団)に着任し[1] 、広東に駐屯した[1] 。1941年(昭和16年)8月に中部軍参謀長に転じ[1] 、1942年(昭和17年)12月に陸軍中将進級と同時に陸軍歩兵学校長に就任した[1] [2] 。1944年(昭和19年)7月8日には本土決戦用の第93師団長に親補された[1] 。1945年(昭和20年)3月1日に第23軍司令部附を経て[1] 、3月23日には支那派遣軍の中核師団である第104師団長に親補され[1] 、恵州で終戦を迎えた[1] 。
1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[3] 。
脚注
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参考文献
[編集 ]- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。