木下八百子
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きのした やおこ 木下 八百子 | |
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本名 | 木下 徳子 きのした とくこ |
生年月日 | 1892年6月 |
没年月日 | 1967年8月29日 |
出生地 | 日本の旗 日本 東京府 東京市 日本橋区浜町(現在の東京都 中央区 日本橋浜町) |
職業 | 女優 |
ジャンル | 新劇、新派、サイレント映画 |
活動期間 | 1913年 - 1967年 |
主な作品 | |
『不如帰』 『呪の蛇』 | |
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木下 八百子(きのした やおこ、1892年 6月 - 1967年 8月29日 [1] [2] )は、日本の女優である。本名は木下 徳子(きのした とくこ)[1] [2] 。
人物・来歴
[編集 ]1892年(明治25年)6月、東京府 東京市 日本橋区浜町(現在の東京都 中央区 日本橋浜町)に「木下徳子」として生まれる[1] [2] 。
東京・築地にあった旧制・女子英語学校を卒業[1] 、満20歳を迎える1912年(明治45年)、大阪の松竹女優劇に出演している[2] 。翌1913年(大正2年)、東京・牛込区の牛込高等演芸館に出演[2] 、新劇女優としての初舞台であった[1] 。この頃、演劇界の恋人・山本有三と交際を始めるが、二年間で終わった。1915年(大正4年)からは、天然色活動写真(天活)が製作する映画や、浅草のみくに座、浅草公園六区の三友館での映画と演劇を組み合わせた連鎖劇に、藤野秀夫、井上正夫、中野信近らとともに出演、なかでも『不如帰』、『呪の蛇』で人気を獲得した[1] 。1917年(大正6年)、天活から分離独立した小林喜三郎の小林商会で、関根達発らと三友館で上映される映画に出演した。
その後、1921年(大正10年)ころには成美団で[1] 、富士野蔦枝らとともに活動する[3] 。1922年(大正11年)には、帝国キネマ演芸の映画に出演した。1924年(大正13年)、「木下八百子一座」を旗揚げした[1] 。
1967年(昭和42年)8月29日、死去した[1] 。満75歳没。
フィルモグラフィ
[編集 ]天然色活動写真東京撮影所
[編集 ]- 1915年
- 『搭上の秘密』 : 監督井上正夫・吉野二郎、共演井上正夫・藤野秀夫、興行 浅草・みくに座
- 『不如帰』 : 監督吉野二郎、原作徳富蘆花、脚本山本勇三、共演藤野秀夫・井上正夫、興行 浅草・みくに座
- 『白菊草紙』 : 監督不明、共演井上正夫、興行 浅草・みくに座
- 1916年
- 『寒紅梅』 : 監督不明、共演藤野秀夫・井上正夫、興行 浅草・みくに座
- 『江戸の花』 : 監督不明、共演藤野秀夫・井上正夫、興行 浅草・みくに座
- 『花時雨』 : 監督不明、共演秋月邦武・井上正夫、興行 浅草・みくに座
- 『春の潮』 : 監督不明、共演秋月邦武・井上正夫、興行 浅草・みくに座
- 『花咲く家』 : 監督不明、興行 浅草・みくに座
- 『己が罪』 : 監督、原作菊池幽芳、共演中野信近、興行 浅草・三友館
- 『琵琶歌』 : 監督不明、共演中野信近、興行 浅草・三友館
- 『湖畔の家』 : 監督不明、共演中野信近、興行 浅草・三友館
- 『夕立雲』 : 監督不明、共演中野信近、興行 浅草・三友館
- 『千鳥が淵』 : 監督不明、共演中野信近、興行 浅草・三友館
- 『呪の蛇』 : 監督不明、興行 浅草・三友館
小林商会
[編集 ]- 1917年
- 『二人妻』 : 監督不明、共演関根達発、興行 浅草・三友館
- 『心の闇』 : 監督不明、共演関根達発、興行 浅草・三友館
- 『朧夜』 : 監督不明、興行 浅草・三友館
- 『侠艶録』 : 監督、原作佐藤紅緑、興行 浅草・三友館
帝国キネマ演芸
[編集 ]- 1922年
- 『小野訓導』 : 監督不明
- 1922年