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曇慧

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曇慧
生地 中国 [1]
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曇慧(どんえ、朝鮮語: 담혜生没年不詳)は、中国出身の百済 [1] 中国から百済を経由して日本に渡る[1]

人物

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日本書紀』によると、先に来日していた僧道深らと交代するため、欽明天皇十五年(554年)、易博士 王道良五経博士 王柳貴易博士 王保孫医博士 王有㥄陀採薬師 潘量豊固徳 丁有陀らとともに来日したという[2] [1]

考証

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曇慧来朝を伝える史料は以下である。

二月。百濟遣下部杆率將軍三貴。上部奈率物部烏等乞救兵。仍貢徳率東城子莫古。代前番奈率東城子言。五經博士王柳貴代固徳馬丁安。僧曇慧等九人代僧道深等七人。 — 日本書紀、巻第十九
中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。

ここに「僧曇慧等九人を僧道深等七人に代ふ」とあるから、欽明十五年以前に、僧曇慧以下九人の僧侶が百済から日本に来ていたことになるが、この記事は信用しがたい。第一に、もっとも重要な僧侶の来朝記事がみえないからである。もちろん、『日本書紀』の脱漏の可能性も考えなければならないが、仏像経典の記事を詳しく書いた編者が、僧侶記事を落とすとは考えにくい。そして、次にみる敏達朝の記事が、当時の日本には百済僧がいなかったことを推測させる[3]

是歳。蘇我馬子宿禰請其佛像二躯。乃遣鞍部村主司馬達等。池邊直氷田。使於四方,訪覓修行者。於是唯於播磨國得僧還俗者。名高麗惠便。大臣乃以爲師。令度司馬達等女嶋。曰善信尼。〈年十一歳。〉又度善信尼弟子二人。...馬子獨依佛法。崇敬三尼。...由是馬子宿禰。池邊氷田。司馬達等。深信佛法修行不懈。馬子宿禰亦於石川宅脩治佛殿。佛法之初自而作。 — 日本書紀、巻第二十
中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。

この記事によると、蘇我馬子は使者を四方に派遣して、仏法の師を求めている。蘇我馬子の命をうけた司馬達等池辺直氷田は、播磨国で還俗した僧をみつけ、高句麗から渡来した恵便であった。蘇我馬子はその恵便を再び出家させ、師としたというのであるが、一つの疑問が生じる。欽明朝以来、もっとも仏教を擁護してきたのが蘇我氏であり、その蘇我氏がなにゆえ、還俗した高句麗僧を「師」としなければならなかったのか[3] 。欽明天皇十五年の百済僧交代の記事が事実ならば、蘇我馬子はそれらの百済僧から仏教の師を選べばよいはずであるが、それが行えなかったということは、とりもなおさず、当時の日本国内には百済からの請来僧がいなかったということを意味し、このことは、欽明天皇十五年の僧侶交代記事が事実と相違していることを意味する。すなわち、敏達天皇十三年までは、少なくとも日本には僧侶がいなかった。それは、亡命百済人にとって、聖明王は故国の輝かしき王であり、その王の事績をできるだけ輝かしきものとするためには、仏像と経典だけでなく、僧侶の派遣も他の朝鮮二国に先んじて百済が行ったと記録したかったと解釈される[3]

日本書紀』には、百済三書と称される『百済記 (朝鮮語版)』『百済新撰 (朝鮮語版)』『百済本記 (朝鮮語版)』といった史料が引用されている。これらは、新羅に滅ぼされ、百済復興戦でも白村江で敗れた百済の知識人たちが、日本に亡命した結果、百済の史料が日本にもたらされて、『日本書紀』編纂において利用されたものとみて間違いなかろう[3] 。『日本書紀』の有名な仏教公伝記事は、百済から伝えられたのは仏像経典だけで、僧侶は伴われていない[4] 。当時の百済の状況としては、対新羅戦、対高句麗戦の軍事的協力を日本から得たいという具体的目的があり、けっして文化的な行動ではなく、軍事的思惑での仏教伝来であったから、物だけで十分で、人は必要ないと考えられたのかもしれない[3] 。百済から仏像と経典が贈られたことは認めたとして、これをもって歴史的に仏教公伝と呼んでよいのであろうか。仏教とは「仏・法・僧」つまり、仏像、経典、僧侶の三者が揃って初めて仏教足りえる。むしろ、僧侶こそが、その三者のなかで最も重要といえ、そのことは、戦国時代のキリスト教宣教師たちの存在を思い起こせば、容易に理解でき、十字架聖書があっても、それを解説してくれる人間がいなければ、宗教は受容されない[3]

脚注

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  1. ^ a b c d 葉渭渠『日本文化通史』北京大学出版社、2009年7月、150頁。ISBN 9787301153505 
  2. ^ 服部敏良日本医学史研究余話科学書院、1981年10月1日、22頁。ISBN 4760301003 https://books.google.co.jp/books?id=nIYL5t84rJ4C&pg=PA22=onepage&q&f=false#v=onepage&q&f=false  
  3. ^ a b c d e f 中村修也「『日本書紀』編纂と亡命百済知識人」『歴史読本』第51巻第3号、新人物往来社、2006年2月、176-178頁。 
  4. ^
    冬十月。百濟聖明王〈更名聖王。〉遣西部姫氏達率怒斯致契等。獻釋迦佛金銅像一躯。幡盖若干・經論若干卷。別表讃流通禮拜功徳云。...是日。天皇聞已歡喜踊躍。詔使者云。朕從昔來未曾得聞如是微妙之法。然朕不自决。 — 日本書紀、巻第十九
    中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。

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