明徳館 (奥殿藩)
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大給松平家10代目当主[1] にして奥殿藩7代目藩主[2] である松平乗利(大給乗利)は、その藩政において文武を奨励していたが[1] 、弘化3年3月(1846年3月または4月)藩士子弟の教育を目的として開いた藩校が明徳館である[3] 。乗利は明徳館とともに演武場も設けている[1] 。明徳館の教授には中根五右衞門を、演武場の師範役には成瀬文庫をそれぞれ当てた[1] 。
明徳館は安政3年(1856年または1857年)、学問所と改称された[4] 。文久3年(1863年)に藩庁を信濃国佐久郡に移転するまで存続した。
脚註
[編集 ]参考文献
[編集 ]- 榎元半重『大給龜崖公傳』平田春行、1912年。
- 木村礎、藤野保、村上直(共編) 編『藩史大事典 第4巻 中部編II 東海』雄山閣、1989年。ISBN 4-639-00792-2。