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憲宗 (唐)

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(2019年8月)
憲宗 李純
第14代皇帝
王朝
在位期間 永貞元年8月9日 - 元和15年1月27日
(805年 9月5日 - 820年 2月14日)
都城 長安
姓・諱 李淳→李純
諡号 聖神章武孝皇帝
昭文章武大聖至神孝皇帝(宣宗による)
廟号 憲宗
生年 大暦13年2月14日
(778年 3月17日)
没年 元和15年1月27日
(820年 2月14日)
順宗
王良娣 (中国語版)
后妃 なし
陵墓 景陵
年号 元和 : 806年 - 820年

憲宗(けんそう)は、唐朝の第14代皇帝順宗の長男。

生涯

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805年4月に立太子され、同年8月には順宗の病を理由にした譲位にともない即位した。

即位後は宦官の勢力に対抗するために杜黄裳を登用した。さらに地方の節度使勢力を抑制するため、817年(元和12年)には淮南西道節度使を討って地方の統制強化も実施している。対藩鎮勢力の施策としては、儒者の臣を藩帥に任命し、監査任務を主とする監軍には宦官を配し、節度使勢力の動静を監視させる制度を開始した。さらに名臣と謳われた武元衡李吉甫らにも恵まれ、軍備を拡張した禁軍を積極的に活用した結果、唐王朝に反抗的であった河朔三鎮も服従を誓い、衰退した唐は一時的な中興を見た。

だが、太子に立てられた長男の鄧王・李寧(恵昭太子)が19歳で早世すると、憲宗はその悲しみから仏教道教に耽溺するようになった。法門寺仏舎利長安に奉迎することを計画し、韓愈の「論仏骨表」による諫言を退け、莫大な国費を費やして供養を行なった。また丹薬を乱用し宦官を虐待するという精神的異常をきたした。そのため820年に宦官の王守澄陳弘志らによって43歳で暗殺された。

宗室

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  • 側室:郭貴妃(贈懿安皇后) - 皇太子時代の正室、郭子儀の子の郭曖と代宗の娘の昇平公主のあいだの娘
    • 三男:遂王 李恒(穆宗) - 第15代皇帝
    • 六男:絳王 李悟
    • 六女:岐陽荘淑公主
  • 側室:鄭宮人(贈孝明皇后) - 李錡の元妾
    • 十三男:光王 李忱(宣宗) - 第19代皇帝
    • 皇女:安平公主
  • 側室:紀美人
    • 長男:恵昭太子(鄧王) 李寧
  • 生母不詳の子女
の第14代皇帝(805年 - 820年)

高祖 618–626 / 太宗 626–649 / 高宗 650–683 / 中宗 684 / 睿宗 684–690 / 中宗 (重祚) 705–710 / 殤帝 710 / 睿宗 (重祚) 710–712 / 玄宗 712–756 / 粛宗 756–762 / 代宗 762–779 / 徳宗 780–805 / 順宗 805 / 憲宗 806–820 / 穆宗 821–824 / 敬宗 824–826 / 文宗 826–840 / 武宗 840–846 / 宣宗 846–859 / 懿宗 859–873 / 僖宗 873–888 / 昭宗 888–904 / (徳王 900–901) / 哀帝 904–907

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