庭田重保
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時代 | 室町時代末期-安土桃山時代 |
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生誕 | 大永5年7月23日(1525年 8月11日) |
死没 | 文禄4年8月26日(1595年 9月29日) |
別名 | 良祐(法名) |
官位 | 正二位、権大納言、蔵人頭、頭中将、参議 |
氏族 | 庭田家 |
父母 | 父:庭田重親、母:今出川季孝の娘 |
妻 | 広橋兼秀の娘 |
子 | 重具、正親町季秀、中御門資胤 |
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庭田 重保(にわた しげやす)は、室町時代末期から安土桃山時代にかけての公卿。庭田家10代。
父は権大納言・庭田重親。官位は正二位、権大納言。自筆記「重保朝臣記」の作者でもある。
生涯
[編集 ]享禄2年(1529年)、叙爵。天文3年(1534年)、侍従。同16年(1547年)に蔵人頭。頭中将を経て、弘治元年(1555年)、参議。永禄元年(1558年)、権中納言 [1] 。
元亀4年(1573年)、朝廷が足利義昭と織田信長の争いを調停すべく、勅使として二条晴良、三条実澄と共に織田勢の本陣である知恩院に赴き、信長と対面する[2] 。天正3年(1575年)、権大納言。同4年(1576年)、正二位に任ぜられる[1] 。
『重保朝臣記』と称される天文17年(1548年)の正月の自筆記が残っている。当時、重保は24歳、頭中将。和歌も詠み、正親町天皇の宮廷で天正8年(1580年)ごろ催行されたとみられる『天正内裏歌合』や、同20年(1592年)の後陽成天皇の聚楽第行幸の歌会などをはじめ、宮中の歌会によく加わっていたことが知られる。