平岡頼資
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長10年(1605年) |
死没 | 承応2年1月8日(1653年 2月5日) |
改名 | 定常(初名)→頼資 |
別名 | 牛右衛門(通称)、重勝 |
戒名 | 隆光院日詮居士 |
墓所 | 岐阜県 可児市兼山の専養寺 |
官位 | 従五位下、石見守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 美濃 徳野藩主 |
氏族 | 平岡氏 |
父母 | 父:平岡頼勝、母:上月景貞の娘 |
妻 |
正室:小堀政一の娘 継室:内藤政長の娘 |
子 | 新十郎、頼重 、妻木頼次、娘(山下昌勝室) |
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平岡 頼資(ひらおか よりすけ)は、美濃 徳野藩の第2代藩主。
生涯
[編集 ]慶長10年(1605年)、初代藩主・平岡頼勝の長男として河内で生まれる。母は上月景貞娘(黒田如水の姪)。正室は小堀政一の娘。慶長12年(1607年)の父の死去により、3歳で家督を継いだ。
晩年に庶長子の新十郎と次男の頼重が家督争いを起こし、後継者を指名せずして承応2年(1653年)1月8日(異説として7月4日)に死去した。享年49。
頼資の死後、平岡家は家督争いの他、頼重の不行跡などにより、家督相続が認められず改易となった。ただし、頼重が1000石を与えられ、子孫は2000石(最終的には6000石)の旗本として存続することを許された。