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川島勝司 (野球)

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(2015年8月)
川島 勝司
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 栃木県 佐野市
生年月日 (1943年04月17日) 1943年 4月17日(81歳)
身長
体重
170 cm
67 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
野球殿堂 (日本)
殿堂表彰者
選出年 2021年
得票率 92.3%(14票中13票)
選出方法 特別表彰
この表について
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川島 勝司(かわしま かつじ、1943年 4月17日 - )は、日本社会人野球選手(内野手)、監督。

1996年のアトランタオリンピック野球日本代表監督を務め、銀メダルに導いた[1] [2]

経歴

[編集 ]

栃木県 佐野市出身。桐生高では稲川東一郎の指導のもと、1961年 夏の甲子園県予選を勝ち抜き、北関東大会準決勝に進むが、八木沢荘六島野育夫のいた作新学院に敗退、甲子園出場を逸する。

卒業後は中央大学へ進学。東都大学野球リーグでは在学中2回優勝。リーグ通算101試合出場、316打数78安打、打率.247、0本塁打、31打点。ベストナイン(三塁手)2回受賞。大学の1年上に武上四郎末次利光、1年下には高橋善正高畠導宏日野茂がいた。

1966年日本楽器(現・ヤマハ)に入社。1967年都市対抗に出場。2本の本塁打を放ち決勝に進出するが、日本石油平松政次に完封を喫し準優勝にとどまる[3] 。翌1968年都市対抗には河合楽器の補強選手として出場。中心打者として決勝に進むが、富士製鐵広畑神部年男に完封を喫しまたもや準優勝に終わった[3] 。8月にはアラスカ・ゴールドパナーズ[4] との日米親善野球試合に出場。同年の社会人ベストナイン(三塁手)に選出され、ドラフト会議近鉄から2位で指名されるが拒否。

1971年オフに監督に就任(選手兼任監督)。翌1972年には都市対抗に2年連続4回目の出場を果たす。エース新美敏の好投もあり、決勝で三菱自動車川崎を降し、監督一年目でチームを初優勝に導く[3] 。またその年、ニカラグアで開催されたアマチュア野球世界選手権に日本代表監督(アマチュアではあるが、本格的な世界大会において初めての日本代表監督)として参加。以降、日本楽器を4シーズンで監督の座を降りて社業に専念するが、1978年に監督として復帰(1980年まで)。この間、1979年にキューバで開催されたIBAFインターコンチネンタルカップにおいて、再び日本代表監督として参加。決勝で地元キューバには屈したが準優勝をおさめた。

1986年に三たび日本楽器のユニフォームに袖を通し、1987年1990年に都市対抗で優勝を果たす(1987年はチーム名が「日本楽器」から「ヤマハ」に変わった年でもあった)。ヤマハは過去3回都市対抗野球大会を制しているが、そのいずれも川島が指揮を執っている。また、1970年代1980年代1990年代の3つの年代で優勝を経験した唯一の監督でもある。1987年には社会人ベストナインの特別賞を受賞している。

その経験を買われ、以前から携わっていた野球日本代表でも指導者として活躍する。1988年ソウルオリンピック野球日本代表ではヘッドコーチを務め、1993年アジア野球選手権大会1995年の第18回アジア野球選手権兼アトランタオリンピックアジア地区予選、1996年アトランタオリンピック野球日本代表では監督を務めた[5]

その後、1999年オフに同じ東海地区のライバルチームであるトヨタ自動車からの監督就任要請を受け、これを受諾する。プロ以上に「生え抜き主義」で監督を外部から迎えることが珍しい社会人野球界でビッグネームの移籍・監督就任は大きなニュースとなった。トヨタでは3年間指揮を執り、その3年間全てにおいて都市対抗野球大会に出場したが優勝には手が届かなかった。2003年シーズンからは、トヨタの副部長兼総監督としてベンチから離れてチームを見守っている。

日本野球連盟の常任理事を務めたことがあり[6] 、2021年現在、同連盟参与を務めている[7]

高校野球甲子園大会でのテレビ解説なども度々行っている。

2021年1月14日、野球殿堂表彰者(特別表彰部門)に選出され[8] 、その顕彰式が7月14日に第46回社会人野球日本選手権大会決勝戦(大阪ガス三菱重工East/京セラドーム大阪)の試合開始前に執り行われた[9]

脚注

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  1. ^ "夏季オリンピックロサンゼルス大会 野球競技優勝30周年記念トークイベント「野球とオリンピック」を開催しました!". 野球殿堂博物館 (2014年8月7日). 2015年8月18日閲覧。
  2. ^ "野球殿堂入り 競技者表彰23年ぶり該当者なし バース氏6票足らず...【内訳】". デイリースポーツ online (2021年1月14日). 2022年6月15日閲覧。
  3. ^ a b c 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  4. ^ アラスカ・ゴールドパナーズ1968年」大学生を主体としアラスカ・リーグに所属するセミプロチームである
  5. ^ "夏季オリンピックロサンゼルス大会 野球競技優勝30周年記念トークイベント「野球とオリンピック」を開催しました!". 野球殿堂博物館 (2014年8月7日). 2015年8月18日閲覧。
  6. ^ "代表22人は固まりつつある 五輪予選で長嶋監督". 共同通信 (2003年4月21日). 2015年8月18日閲覧。
  7. ^ "公益財団法人 日本野球連盟 役員等一覧" (PDF). 日本野球連盟. 2021年9月6日閲覧。
  8. ^ 2021年 野球殿堂入り発表 川島勝司氏、佐山和夫氏が殿堂入り!』(HTML)(プレスリリース)野球殿堂博物館、2021年1月14日https://baseball-museum.or.jp/hall-of-famers/hof2021/ 2021年1月14日閲覧 
  9. ^ 川島勝司氏 野球殿堂入り表彰式開催』(HTML)(プレスリリース)野球殿堂博物館、2021年7月14日https://baseball-museum.or.jp/hall-of-famers/%e5%b7%9d%e5%b3%b6%e5%8b%9d%e5%8f%b8%e6%b0%8f%e3%80%80%e9%87%8e%e7%90%83%e6%ae%bf%e5%a0%82%e5%85%a5%e3%82%8a%e8%a1%a8%e5%bd%b0%e5%bc%8f%e9%96%8b%e5%82%ac/ 2021年8月17日閲覧 

関連項目

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競技者表彰
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
プレーヤー
2000年代
2010年代
2020年代
エキスパート
2000年代
2010年代
2020年代
特別表彰
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
新世紀
2000年代
 
日本の旗 野球日本代表
指名選手

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