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川俣清音

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(2016年10月)
川俣清音

川俣 清音(かわまた せいおん、1899年(明治32年)4月15日 [1] [注 1] - 1972年(昭和47年)12月7日 [2] )は、大正、昭和期の社会運動家、農民運動家、政治家

経歴

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明治32年(1899年)5月15日北海道 余市郡 余市町に生まれる。大正12年(1923年)早稲田大学を卒業する。大学在学中から農民運動に参加し、大正13年(1924年)秋田県で日本農民組合(日農)支部を組織する。日農では中央委員を務め、小坂銅山争議では、加藤勘十浅沼稲次郎三輪寿壮らとともに現地に赴き争議を指導する。

昭和5年(1930年)地方無産党から衆議院選挙に立候補するものの落選。昭和11年(1936年)社会大衆党から衆議院議員に初当選する。以後当選通算8回。戦後は日本社会党に所属し、中央執行委員などを歴任する。昭和30年(1955年)の左右社会党統一、社会党結党時には書記長候補に名が挙げられた。

1972年12月7日、糖尿病の悪化により東京共済病院で死去。自宅は東京都 世田谷区にあった[3]

親族

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脚注

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注釈

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  1. ^ 『新訂 政治家人名事典 明治〜昭和』189頁では「5月15日」。

出典

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  1. ^ 衆議院『第七十一回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1937年(昭和12年)、21頁。
  2. ^ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』195頁。
  3. ^ 訃報欄『朝日新聞』昭和47年(1972年)12月8日朝刊、13版、23面

参考文献

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定数4
第23回
第24回
第25回
第26回
第27回
第28回
第29回
第30回
第31回
第32回
第33回
第34回
第35回
第36回
第37回
定数3
第38回
第39回
第40回

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