川俣清音
表示
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
川俣 清音(かわまた せいおん、1899年(明治32年)4月15日 [1] [注 1] - 1972年(昭和47年)12月7日 [2] )は、大正、昭和期の社会運動家、農民運動家、政治家。
経歴
[編集 ]明治32年(1899年)5月15日北海道 余市郡 余市町に生まれる。大正12年(1923年)早稲田大学を卒業する。大学在学中から農民運動に参加し、大正13年(1924年)秋田県で日本農民組合(日農)支部を組織する。日農では中央委員を務め、小坂銅山争議では、加藤勘十、浅沼稲次郎、三輪寿壮らとともに現地に赴き争議を指導する。
昭和5年(1930年)地方無産党から衆議院選挙に立候補するものの落選。昭和11年(1936年)社会大衆党から衆議院議員に初当選する。以後当選通算8回。戦後は日本社会党に所属し、中央執行委員などを歴任する。昭和30年(1955年)の左右社会党統一、社会党結党時には書記長候補に名が挙げられた。
1972年12月7日、糖尿病の悪化により東京共済病院で死去。自宅は東京都 世田谷区にあった[3] 。
親族
[編集 ]- 養子 川俣健二郎(社会党衆議院議員)
脚注
[編集 ]注釈
[編集 ]- ^ 『新訂 政治家人名事典 明治〜昭和』189頁では「5月15日」。
出典
[編集 ]参考文献
[編集 ]- 『新訂 政治家人名事典 明治〜昭和』日外アソシエーツ、2003年。ISBN 9784816918056
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。